私は海が好きだ。
遠くにいくにつれ、深くなっていくブルー。
どの瞬間も同じ海ではなくて、こちらがキラッと光ったかと思えば今度はあちらが輝く忙しなさ。
一方で、波打つ音はどこまでも伸びて余裕を持っている。
でも、そんな海を眺めるのもほどほどに、私は足元に視線を落とす。幼稚園児の手の平にいっぱいくらいの貝殻を、私はいつも探してしまう。

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幼稚園の年中さんの時、友達が海で拾ったんだと大きな貝殻を見せてくれた。今まで見たこともないほど大きかった。
アサリを大きくしたような、王道の貝の形。色は純度の高い石灰石のように真っ白。ざらりとした表面の正体は何年生きたのだろうか、風格を思わせる年輪のようないくつもの線だ。そのくせひっくり返した内側は、太陽の光を反射して瑞々しい光沢を持っている。
とにかく、たった数年の人生でも悟れるほど、その貝殻は美しく、神秘的で、5歳の私の心を奪うのには十分過ぎた。

全てを母と共有したいママっ子だった私は、その子に頼み込んで、貝殻を一日貸してもらうことになった。

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早速、家で母にそれを見せた。立派な貝殻だねと言ってくれた気がする。母に見せるために貸してもらったのに、母の反応はあまり覚えていないのだ。覚えているのは、一日中その貝殻を見続け、触り、海の音が聞こえやしないかと巻貝でもないのに耳を澄ませ、その貝が住んでいた海を想像したことだけだ。

しかし、幼稚園児の私は飽きっぽかったらしい。あんなに夢中だったのに、次の日にはもう忘れていた。貝殻を返さなければならないこともだ。そのまま何日かが過ぎた。あの子にも催促されなかったのだ。忘れっぽいのは幼稚園児の特性かもしれない。

それでも久しぶりに宝箱を開け、貝殻のことを思い出した。けれど、私はそれを持ち主には返さなかった。相手も忘れているのだから、このまま持っていてもいいかと思ってしまったのだ。忘れていたくせに、目の前にするとその貝殻はやはりとてつもなく魅力的に映るのだった。

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そうして、結局貝殻は返さないまま、今も私の手元にある。
その子の顔も、名前もちっとも思い出せない。でも、初めて貝殻を見せてもらって手の平に乗せた、あの握り込むことができないほどの大きさ、手の感覚は今も鮮明に残っている。
彼は覚えているだろうか。19歳になった今でも色褪せることなく立派だと思える貝殻だ。
あの時は忘れていても、成長してふと思い出しているかもしれない。そう思うと罪悪感でいたたまれなくなる。

だから私は海に行くと貝殻を探すのだ。彼に返せなかったあの貝殻より大きいものが見つかれば、少しは私の心も軽くなるかもしれないから。
でも、どの貝殻もあれには遠く及ばない。貧相な貝殻を拾う度、後悔、自責の念、申し訳なさ、そうした感情が胸につかえていくばかりだ。

顔も名前も知らないあの子。もう会うことはないだろうし、すれ違ったところで気づくことはできない。だからこの場で言わせてください。

あのときは本当にごめんなさい。