偶に顔を出すそいつは、幼稚園児の時から夢を見せてくれなかった

幼稚園児だった頃、よくされた質問は、
「おなまえは?」
「なんさい?」
「たんじょうびはいつ?」
そして、「おおきくなったらなにになりたい?」

たくさんのお店屋さんがページいっぱいに描かれている絵本を見て、私はわくわくしながら心に決めた。年少のときは「お花屋さん」、年中になったら「ケーキ屋さん」、年長になったら「パン屋さん」、そう言うんだって。そう言って良いんだって。

クラスのお誕生日会ではもちろん、
「お誕生日おめでとう。大きくなったら何になりたい?」
と聞かれる。ともだちは、アニメのヒロインとか戦隊もののヒーローとかキャラクターを答えている。私はもちろん、「お花屋さん」。
「どうして?」
「だって、(アニメのキャラクターに)なれるわけないじゃん」
幼稚園児のくせに、なぜかそこは冷めていた。どこか理性がすっかり座っているところがあった。そいつは偶に顔を出す。

本当になりたいものがこんなに早く見つかるはずないし、今決めても途中で変わるかもしれない。それなのに、うんざりするほど事あるごとに同じ質問を繰り返される。

年々現実味を帯びてくる「夢」をその場しのぎで答えるように

小学生になると、さすがに名前や年齢、誕生日はあまり聞かれなくなってきたが、「将来の夢」はしぶとい。しかも重みを増してくる。「夢」が「現実」味を帯びてくる。鏡を抜けてやってくる。

聞かれたら何か答えなければならない、早く仕事を決めなければならないという圧力を感じる。だから、漫画が好きだから漫画家、読書が好きだから作家、絵を描くことが好きだから画家と、その場しのぎで答える。

「マンガ絶対買うよ。読んでみたい」
「絵が上手だからきっと画家になれるよ」
と、友人はびっくりするほど雑じり気がなくあたたかい言葉をかけてくれた。それなのに私はどこか歯切れが悪く、腑に落ちない。

いつまでも決まらない。いつまでも分からない。いつまでもしっくりこない。いつまでも「なれるわけない」。時には「まだ決まっていない」とはぐらかす。

二十歳の自分へ向けて、タイムカプセルに託す手紙を書いた。
「将来の夢は決まりましたか?実現に向けて頑張っていますか?」
書きつつも、
「未来に投げているな。でも、大学生になっても決まっていないんだろうな」
と心の中で声がする。

将来がまったく見えない。私はいつから立ち止まっているんだろう

高校3年生の冬、担当掃除場所だった進路指導室の前の廊下でぽつりとつぶやいた。
「将来がまったく見えない」
自分の未来が見通せない。まるで出口が見えない真っ暗なトンネルの中にいるような景色が浮かぶ。ぷつりと時間が途切れているような……断絶。

ふと思う。私はいつから立ち止まっているのだろうか。
――思えば記憶が始まる前からだ。そこで何かが起こっていたのか、それとも初めから何も起こっていなかったのかは分からない。私はずっとそこで立ち往生している。立ち止まっているなら立ち止まっているなりにじっくり考えればいいものの、それもしていない。

例えば大学を決めるとき。「何を学びたいか」よりも「食べていけるか」とか何とか周りから言われ、とりあえず成績に合った大学を選んだ。
大学生時代、やっぱり本当になりたいものが分からなくて、なんとなくずるずると就職活動をして、就職浪人をして、運良く拾ってもらって就職できた。

「昔から毎日、いろいろなことについて、その場しのぎで、しのぐことで精一杯だった」
言い訳にもならない。
思い切れない。踏み出せない。ずっとそうだ。見つかるか、叶うか、恥ずかしくないか、嫌にならないか、続けられるか、生活していけるか……もやもやとした不安をひどく恐れている。

腐る前に、意を決して歩き始めなければ、このまま終わってしまう。
だらだらとあてもなく漂い続けるうちに擦り減り、沼にはまり、引きずり込まれ、このことすらも忘れてしまう。