約4年勤めた、新卒で入った会社。
寒い時期になってくると、仕事帰りの私はよく、駅のホームの自販機でおしるこを買っていた。
言わずもがなだが、夏場の自販機に温かいおしるこは売っていない。
寒くなってくると自販機のラインナップにおしるこが並ぶ場合があることは知ってはいたけれど、大人になるまでそれを買って飲んだことは一度もなかった。おしるこはあくまでお椀によそって食べるもので、スチール缶のプルタブを引いて飲むスタイルにあまりピンと来なかったからだ。
仕事帰りの私が、一度も飲んだことがなかった自販機のおしるこのボタンを押したのは、ただただ疲れていたからだったと思う。もしかしたらその日は目が回るような忙しさだったのかもしれない。
疲れが溜まると、無性に甘いものが食べたくなる。日が暮れた寒空の下、早く早くと震えながら電車を待つその時間。糖分補給ができて、身体がほっと温まるもの。意識下の欲求がそのまま指先に伝わり、カランコロンと音を立てておしるこが降ってきた。
◎ ◎
そのおしるこが、とにかく美味しかったのだ。
熱々だけれど、猫舌の私にも飲める温かさで、じんわりと甘い。ほろほろと舌の上で転がっていく小豆の粒の感触も楽しくて、「自販機のおしるこ、めちゃめちゃ美味しいじゃん」と私は慄いた。
それからというもの、私は毎日のように仕事帰りに自販機のおしるこを買うようになった。駅に自分が着くタイミングとホームに電車が滑り込んでくる時間にあまり開きがないときは、泣く泣くおしるこを断念した。電車を待っている間に、外の冷えた空気にあたりながら飲む熱々のおしるこが格別なのだ。今までは電車の待ち時間なんてゼロに限りなく近いほうがいいと思っていたのに、むしろ少し待ちたがっている自分に驚いた。私はあまり物欲がない方で、普段から好きなものにお金を使う場面が少なかったけれど、おしるこには惜しみなく小銭を投じた。他の人にとっては自販機で飲み物を買うことなんて息をするのと同じレベルなのかもしれない。でも普段から徹底して水筒を持ち歩く私にとっては、自販機で飲み物を買うことも、そして連日おしるこを飲み続けることも、愉快な背徳感があるものだった。そしてその小さな贅沢が、仕事帰りの楽しみにもなった。冬季限定の。
その会社を辞めたあと、私は何度か転職を繰り返した。電車通勤のときもあったが、そうでないときも多かった。気づいたら私は、自販機のおしるこで味わった感動をすっかり忘れてしまっていた。
◎ ◎
そして、ここ最近。
連日自販機のおしるこを飲んでいたあの冬から、もう3年近い月日が流れていた。何のきっかけで思い出したかは曖昧だが、ふいにまた飲みたくなったのだ。自販機のおしるこを。
季節もちょうど秋の終わりかけだったし、飲み物のラインナップが入れ替わるタイミングなのでは?と、近所の自販機をくまなくチェック。私が確認した段階ではおしるこが見当たらなかったけれど、この話をあらかじめ共有していた夫から、後日「どこそこの自販機にあったよ、おしるこ」と待望の報告が舞い込んできたのだ。
在宅フリーランスで仕事をしている現在の私。よく晴れたとある平日の昼下がり、散歩がてら自販機でおしるこを買った。久しぶりの体験に、確かに私の胸はときめいた。
歩道のない道端、両脇は住宅街。その場で飲むわけにはいかず、そもそも自宅はそこから歩いて1分程度だったから私は早歩きで家へと帰った。近所の大きな公園をぐるりと歩いてから自販機でおしるこを買った私は、少し疲れていた。ふう、と数分間ぼうっとし、それからプルタブに手をかけた。
◎ ◎
スチール缶で飲む久々のおしるこ。確かに、美味しかった。ほんのり温かくて、甘い。
でもなぜだろう。駅のホームで飲んだあのときのような感動が訪れない。
再度飲む。やはり同じだった。むしろ美味しさが薄らぐ。
なぜ、どうして、と心の中で首を傾げているうちに、あっという間に手にしたそれは空き缶になってしまった。底の方に溜まった小豆の粒がなかなか飲み口まで降りて来ず、思いきり天井を仰いで私は小豆の残骸を口元まで召喚させようとした。人がまばらにいる駅のホームでこの無様な姿勢はできなかったな、底にへばりついたいくつもの小豆を惜しみながら泣く泣くゴミ箱に空き缶を放ったな、なんて思いながら。
出社して、丸1日会社で働く。仕事帰り、きんと冷えた空気に包まれながらホームで電車を待つ。待っている間、自販機に小銭を投じ、温かい缶を手に取る。時間を置かず、すぐにプルタブを引く。そのすべての条件が揃って初めて、あの身も心もとろけるような感動が降ってくることに気付いた。
今の時点で、私は会社員に戻るつもりはない。でもそうなると、自販機のおしるこで抱いたあの感動はもう味わえない。
そう思うと、ほんの少しさみしくなった。