大学卒業後、東京の会社に就職が決まったことをきっかけに、実家を離れ、一人暮らしを始めた。
毎日複数の賃貸情報サイトを見漁って、いくつか目星をつけた物件は、どれもこれも「なぜそうなった?」と思ってしまうツッコミポイントがあった。
信じられないほどの急斜面の坂の上にあるアパート。異様に小さい窓。料理することを前提に作られていないキッチン。
もはやキッチンってなんだっけ。東京の家って、こんなもんなの?田舎の実家でぬくぬく暮らしていた私には、衝撃的なことばかりだった。

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結局、室内の条件を妥協できなかったため、アクセスの良さという条件を捨て、主要な駅から離れた物件に決めた。新築の木造アパートは、清潔で、風呂トイレ別で、コンロは3口。ただし日当たりは抜群に悪く、生活音は丸聞こえだった。でも、なんだかんだで気に入っていた。
初めての一人暮らしは、思いの外、快適だった。
誰も何もしてくれないけれど、何時に、何をしても、誰にも何も言われない。そこは自分勝手に築き上げた、自由の城だった。

健康だけには自信があった私だったが、環境の変化によるストレスが、気付かないうちに溜まっていたらしい。おそらく15年ぶりくらいに、風邪をひいて熱を出した。
「一人暮らしで体調を崩すと大変」というのはよく聞く話だが、学生時代にインフルエンザが大流行して、あちこちのクラスが学級閉鎖しても、平気な顔して生き残るような自分には、無縁だと思って聞き流していた。まさか身をもって体験することになるとは思わなかった。
だるいとはいえ、何か食べないと死ぬと思い、ヨーグルトやプリンなどを食べてみるも、すぐトイレに駆け込む羽目になった。風邪にはビタミンが必要だと思い、スーパーでミカンを買ってみたものの、弱った胃腸に酸味の強い食べ物は良くないと後で知った。体調不良時の対応に関する知識や経験が、あまりにも足りなかった。
なにこれ。詰んだ。噂通りだった。咳をしても一人。このままこの小さなアパートで朽ち果てるのか?

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どうしようもなくなり、重い体を引きずって、病院に行った。都心には、仕事終わりでも間に合う時間まで、診察してくれる病院が多くあった。大人には無理をしてでも、働かなければならない日があるらしい。思わぬところで、社会の厳しさを知った。
医師に症状を説明すると、慣れた手つきとテンプレの文言で、薬を処方してくれた。毎日山のような数の患者を捌く迅速な流れ作業は、弱った私には冷ややかだった。

帰宅すると、数日前にネットで買った本が届いていた。封を開け、楽しみにしていた本をパラパラと捲る。そんなことより、薬を飲まなければ。
昔から粉薬は苦手だった。でも私はもう大人なのだ。水を少し含んだ口に、難しい名前の漢方薬を流し込んだ。
次の瞬間、私は漢方薬を床にぶち撒けていた。
信じられないくらい不味かった。今までに経験したことのない、耐えがたい味がした。気付いた時には、口から全部吹き出ていた。

まるで漫画の一コマだった。買ったばかりの本の表紙は、漢方薬まみれになった。そんなギャグみたいなこと、ある?
何より最も悲しかったことは、この冗談みたいな一連の出来事を、誰も見ていてくれなかったことだ。
どうして。こんなに滑稽なのに。誰か見ていてくれよ!腹を抱えて笑ってくれよ!
そして私は一人虚しく、散らかった床を掃除した。これが一人暮らしの宿命なのだと悟った。静かな夜だった。

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良薬は口に苦し。私は凄まじい速度で回復し、数日後には復活した。日本の医療技術に感謝した。本の表紙は少しふやけたが、しっかりした生地だったから、さほど気にならなかった。そして何より、ご飯が美味しく食べられる喜びを噛み締めた。

この「漢方薬事件」は、私の一人暮らしエピソードの中で、最も印象に残っている。何度思い返しても面白い。当時は最低に惨めだったが、今となっては最高の笑い話だ。
ただし、発熱するというのは非常事態である。笑い事ではない。もう二度とあんな辛い思いはしたくない。
一人暮らしの諸君、体調管理には十分注意してほしい。風邪にはミカンより、リンゴを選ぼう。