転勤で長らく馴染みのない土地に暮らしていた私が、久々に帰省した時のことを今でも苦々しく思い出す。

久々の帰省で、友人に再会した。転勤やコロナも重なって、話が積もりに積もっていた。
ぶっ続けで5~6時間は話していたんじゃないかと思う。
近況報告も済んだところで、話題はそれぞれの悩み事へと発展した。
彼女は大学卒業後、就職をせず大学院に進んだ。
そこから長らく自分のやりたい学問を深掘りして、素晴らしい成果を残しながら、高みを目指し続けている素晴らしい女性だ。
そんな彼女が、就職してそれぞれのフィールドで活躍する友達の噂を耳にする中で、どうしても自分と比べてしまって、苦しいのだ、と漏らした。

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私を信頼してくれて、発した声だったように思う。
苦しいことを苦しい、とちゃんと認められることも勇気のいることだと思う。
今だったらわかる。
でも、その時私は、「あなただってそんなにすごいんだから、苦しむ必要なんかないよ、苦しむに値しないよ」みたいなことを言ってしまったのだ。

決して彼女の悩みを軽んじた訳ではなく、「あなたも十分すごいんだから、周りと比べる必要はないよ」という意味を込めていたし、おそらく彼女にもそれは伝わっていたと思う。
彼女は私の励ましもどきの言葉に、「そうかなあ」と若干違和感を示していた。
「でも私はそう思うんだよね、私にとっては苦しいんだ」と言い直していた。
私の発した言葉はもしかしたら、一見、前向きな励ましの言葉のお手本みたいな言葉に思えるかもしれない。
でも、私は時を経るごとに、「しまった」という後悔が胸の中でどうしようもなく膨らんでいくのを感じている。

なぜなら、彼女の苦しみを肯定してあげなかったからだ。
むしろ、否定と同じようなことをしてしまったと私は自覚しているからだ。
なるほど、苦しいんだね、と出てきた言葉を、彼女そのものとして尊重できなかった。
それどころか、ポジティブを押し付けるようなことをしてしまった。
ああ、悪かったな、浅はかなこと言っちゃったな、と今でも思い出すたびに胸が苦しくなる。

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自分の想いを人に伝えるのは勇気がいる。ネガティブな想いなら、なおさらだ。
誰かが私にそんな想いを打ち明けてくれるようなことがあったら、これからはその気持ちはその人そのものなのだ、と受け入れられるような大人になりたいと強く思う。
「そんなに悩むことないよ、あなたはもうすでにすごいよ」とか、他に何か言いたいことがあるなら、一度受け入れてからの話だ。
私は友人のそのままの素直な気持ちを受け止める努力もせずに、謎のポジティブを押し付ける形になってしまった。大人の大反省だ。

教科書通りの励ましの言葉もいいけど、これからはその人の素の感情に耳を澄ませたい。
過度に共感するのではなく、解決策を打ち出すのでもなく、静かに横で見守りたい。
発せられる言葉を聞きたい、その表現に触れたい。友達が安心してアウトプットできる空間を提供できる私でいたい、と苦い思い出を胸に、願う気持ちは止まらないのである。
よりよい友人であるために、反省はつきものだ。