2022年も終わりに差し掛かり、今年はどんな1年だったかなと振り返ることも増えてきた。
2022年の1年間で、私はかなり変わったと思う。
自分を俯瞰して見ることができるようになり、自分の状況を冷静に分析できるようになり、自分の調子が崩れそうな兆候を見逃すことも減った。
人とのコミュニケーションでトラブルになることも減り、誰に対しても柔らかな物言いをすることができるようになった。
そこにあるのは、たしかに私の成長だ。
25歳にもなってやっとそのぐらいの成長?と思われるかもしれないが、これはかなり大きな進歩だと私は思っている。
なぜならば1年前までの私はあまりにがむしゃらだった上に、自分が悲劇のヒロインかのような思い込みに取り憑かれていたからだ。
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就職を毎年目標にしてもがいていたものの、うまくいかなかった数年間。
周囲の助言を受けとめきれず、「放っといてよ!」と背を向け、それでも自分のやり方ではうまくいかず、「こんなに頑張ってもできないのだから」を免罪符に生きることから逃げ続けた数年間。
自分の特性である発達障害を受け入れているように見せながら本質では目をそらし続け、がむしゃらに頑張ればできるようになると思っていた、思っていたかった数年間。
その結果、何度も前を向いて生きることを諦めようとし、自分を傷つけ、周りを傷つけ、何度も泣きわめき、何度も目の前の課題から目をそらし、向き合うことすらできなかった時期もある。本来の自分の目標を見失い、そこに辿り着くまでに間違った方向の努力をがむしゃらにして、うまくいかないことを他の誰かのせいにしたくて、でもできなくて、何で、私は悪くないのに、と心の悲鳴を叫び続けていた。
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就職などの目標達成のためにがむしゃらになるのは悪いことではない。しかし、その結果視野狭窄を起こし、周囲の助言を受け入れず、「なんでうまくいかないの、私はこんなに頑張っているのに!私は悪くない!悪いのは周りの環境だ!」などとわめき散らすのは明らかにだめだろう。
だめだろう、と分かっていながらも闇雲にもがき続けるしかできなかった1年前までの数年間。それが変わったのはやはり、周囲の人たちによる支えがあったことが大きく関係しているだろうと思う。
思えば、通院している病院の主治医が変わった頃からだっただろうか。私が少しずつ物事を冷静に受け止められるようになり始めたのは。
この1年間で過去を振り返ることも随分と増えた。あの時ああしておけばよかった、こうしておけばよかったという後悔も山ほど出てはくるのだが、過去を振り返って気がつくのは家族や友人、恩師などいつでも私の支えになってくれた人たちの存在だ。
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単純に甘やかして居場所を作ってくれるのではなく、ここまでがOK、この先は駄目と線引きをちゃんと教えてくれた上で居場所がちゃんとあるよと教えてくれた高校時代の恩師、いつでも「唯花は優しくて聞き上手だね」と私を肯定しながら読むべき空気が読めていないときには「こういう言い回しをすると柔らかくなるよ」「こういう行動をすると人とぶつかることが減るよ」と優しくアドバイスをくれる中学時代からの友人達、そして何よりだめなものはだめと叱りながら、それでも私がもがいてるところに手を差し伸べながら見守ってくれていた家族。
こういう人たちに囲まれて生きてこられたから、私は今こうして死なずに生きているし、過去を冷静に振り返ることができるようになったのだと思う。
そしてそれらが冒頭にも書いた自分を俯瞰し、客観視した分析ができるようになった、という成長に繋がったのだろう。
私の人生は常に誰かと共にある。そしてその誰かに支えられて1つ1つ壁を乗り越え成長してこられたのだと、今になってようやく気づいた。
だからこそ私は、この成長を大切に、周りの人への感謝を忘れずまた新たなステージへと足を進めたいと思うのだ。