2020年はコンテンツに救われ、殴られ、また癒された1年だった。
中でも、配信コンテンツはやはり自分の生活を大きく占め、価値観を揺さぶるものとなった。

『たりないふたり』というコンテンツを観た。
オードリー若林さんと南海キャンディーズ山里さんのお笑い界のベテラン2人によるユニットで、数年にわたりライブ・配信が行われている。その最新作が、『たりないふたり2020秋』だ。
「飲み会が嫌い」という共通項から意気投合したふたりの、他者との関わりの中で生まれる不満、「たりなさ」から生まれる自虐、裏の裏の裏まで展開を読んでしまうことで生み出された毒。
ふたりとも売れっ子で、各々のラジオを聴く度にその面白さ、頭の回転の速さに嫉妬せざるを得ない。それなのに、ふたりは自己破壊の域に達するまで内省を続け、悶え、腐り、そしてさらに高みに登っていく。その行程に目が離せなくなる。

内省するわたしは「たりないふたり」に共感して気持ち良くなっていた

突然私の話になるが、私は内省に走る気質がある。
課金して受検したストレングスファインダーでも内省が堂々の1位、34資質もあるのに内省がぶっちぎっている。(そもそも「自分について知ろう」というテストを転職活動や会社で受けさせられるわけでもなく、自分で金を払って受けている時点で内省ルートに分岐した上での結果発表なのだ)
なんで私はこう言ったのだろう? いや、やっぱりこの場であの発言はすべきじゃなかった。ああ、期待されたコメントや役回りをこなせなかった。希少な社内営業の機会をまただめにした。また友人と変な空気になった。どうすれば正解だったのだろう。やり直したい、やり直せない……と、24時間脳内反省会が止まらないのだ。
せめて、脳内反省会は田舎のファミレスくらいの営業時間にしたいのだが、飲み会後は特に、脳内反省会の上座にセルフ激詰め上司が鎮座して自分も他人も容赦無くド詰めてきたりする。

前置きが長くなってしまったが、おこがましくもたりないふたりの内省に共感して気持ち良くなっている自分がいたのだ。

「自分の話が多すぎる」若林さんの一言に頭から冷水を浴びせられた

変化は、最新作で起こった。
ご結婚され、さらに人生に追い風が吹いているように見えたふたり。それでもなお、若林さんへの劣等感をさらけ出した企画をぶち上げる山里さん。しかしそれに対して、若林さんは「自分の話が多すぎる」「少年野球チームの監督をやるしかない」と一蹴する。

その瞬間、湯沸かし設定を忘れたシャワーを思い切り頭からかぶってしまったときのような、冷たさを超えたような刺激が全身を通り抜けた。
山里さんはその一言を受けた直後から表情が変わっていたが、多分私も同じ顔をしていたと思う。他人に興味がないと言い毒を吐いていた若林さんが、多種多様な他人を包み込むようになっている。

私の中にある満たされなさ、劣等感、鬱屈としたヘドロを腹の底でトロ火でかき混ぜ続け
煮込んで仕上がった感情をここぞとばかりに成形して、自分を追い込むことがアイデンティティのようになってしまっている間に、地元の同級生や会社の同年代のひとは、家族や部下・後輩に向き合って人生を進めている。そんな状況も同じだと思った。

『自分自分』しい私を他人のために活かせられないだろうか

あまりにも『自分自分』しい私に。また『自分自分』しいと思っていた人が、きちんと成長して他人軸の人間になっていたことに。また『自分自分』しさこそ面白みの源泉と思っていたのに、他人軸になってもきっちり面白い人の存在に、情けなさと淋しさが溢れ出してしまう。

言い訳がましいことを言うと、丸腰(普段)の私は『自分自分』しいが、仕事では自覚的に他者に寄り添える自分であろうとした。
その結果、丸腰の私と仕事仕様の私同士のギャップが軋轢を生んでしまい、自分の感情がアンコントローラブルなものと化し、色々とうまくいかない日々。

俯瞰して見ると職・経済・人には恵まれているため、ここまでの文章は誰かを傷つけかねないなとは思うが、人間の根幹はなかなか簡単に変えることができず、無限内省はしてしまうし、そもそもそんな自分を変えようとしてバランスを崩した。
それならばせめて、この『自分自分』しさを人のために役立てられないだろうか。
例えば、「他人軸になろうと、もがくことをさらけ出す」という内省をこうした場で共有することで『自分自分』しさを他者のために活かせるのではないか。

私が『たりないふたり』を見て苦しみ、癒されたように、他者に文章を通してその気持ちを再生産する。
それがたりないわたし2021のテーマだ。書き続ける。