2023年の目標は、バスケ部のエースとして全国大会に優勝することだ。
書くことが思いつかなくて、うだうだとそんな空想をしてみた。
全国大会のエースなんて、突飛なことを書いたら読む人は信じるだろうか。信じるだろうな。

良い意味で、このかがみよかがみのエッセイを読む人達は互いに無関心だと思うから。タイトルやサムネイルに惹かれてふらふらっとエッセイを読んで、共感したり、退屈を凌いだり、やっぱりアマチュアだよなとページを戻ったり。

そしてエッセイを書く人は、誰かに聞いて欲しい、言葉を紡ぎたい、エッセイが自分のページに溜まっていくのが嬉しい、だから書く。きっとそういう人も多いんじゃないか。

私に自分以外の人の気持ちなんて察することはできないけれど、読む人も書く人も。このかがみよかがみに携わる全ての人に共通していること。それは、誰かの存在は必要としているのに、誰も、その誰かに興味がないということではないだろうか。

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読むためにはそれを書く人が要る。書くためにはそれをサイトに載せる編集者さんが要る。けれど、必要不可欠なその人が誰かは誰も知らない。お気に入りの作者がいて、その人の全てのエッセイを読んでいたとしても、その人のエッセイが好きなだけで、現実世界のその人にきっと興味はない。

もしかしたらそんなことないと反論したくなる人もいるかもしれない。でも、少なくとも私にとって、かがみよかがみはそういうものだ。

悪く言えばそれは淡白で浅いのだろう。でも私にとってはどこまでも自由で、のびのびとしたものだ。
誰に決めつけられることもない。意外だと言われることもない。嘘を嘘だと気づくことすら、もっと言えば、嘘かどうかなんて考えることすらしないこのサイトでは、私を繋ぎ止めるものなんて無い。

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本当の自分は自分の中にある。自分ですら分からないような自分、制御できない自分。それをそのまま他人が見ることはできない。何かに変換した情報でしか知り得ない。それは見た目かもしれないし、声かもしれない。行動や文字情報にも表れるだろう。生きている以上、私達は自らをあらゆる何かに変換して発信せずにはいられない。

でも変換の正確性、受け取らせたいような情報に変換するための正確性は大抵イマイチだ。受容体の方にも問題がある気がしてならないが。

少食そうだ。運動音痴そうだ。しっかりしてそうだ。
そんな情報どこからキャッチしたんだ。仕方ないとは思う。でもやっぱりため息をつきたくなる。

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それが、ここでは違う気がする。私が書く言葉が私を映し出す。映し出された私こそが私である。鏡を作るのは私だ。受け取らせたい「私」という存在を提示しやすい。受容体だって私に無関心だから、変に勘ぐって情報改ざんなんてされない。されたところで私がその情報を再び受け取ることはない。知らぬが仏。

ああ、でもそう考えると私にも問題があるのか。相手がどんな風に情報を受け取ろうが、私がそれに関心を持たなければため息をつくことはない。なんだかんだ言って、私はこの情報路を、世間との関わりを、断ち切らないんだな。

私は人との関わりが好きとは言い切れないけれど、嫌いだとも言えない。けれどやっぱりため息くらいはつきたくなるから。
嫌になるまで私は私を書き続けようか。群れることの嫌いな私が、不特定多数の一人として。それが私を描くことになる。多くとも一方通行のこの場所でなら、私は間違いなく自由であれるんだ。

書き続けることが私の2023年の宣言だ。そう胸を張って言おう。誰も聞いていない中で、誰も見ていない場所で。誰もこんな小さな宣言に興味はないだろうけれどって。