SNSで「繋がりませんか?」というような言葉を見かけることがある。「繋がる」というのは「SNSをフォローし合って、交流しませんか?」という意味だ。

私も、過去にSNSで人と繋がって、交流をしていたことがある。けれど、ある時それを止めてしまった。自分の感情に他人の手垢がついていると意識してしまったからだった。

私はSNSに流れる膨大な情報を「取りこぼさないように」縋りついた

大学に入って、それまで疎遠だったSNSにはまった。他人と繋がることを覚えたのがきっかけだった。

ろくに同じ趣味について会話できる仲間ができたことのない私にとって、それはとても衝撃的な経験だった。同じものを見て感想を言い合い、同じ情報を手に入れて喜びを分かち合う。

新しい情報が解禁されると、誰かが必ず反応する。私も遅れずそれに反応する。誰かが称賛した。誰かが批判をした。毎日膨大な情報が流れて行くなかで、それらを取りこぼさないように縋りついた。

ほぼ1日中SNSを見ていた。当時は、それをとても楽しんでいたように思う。

ではなぜ、繋がることを止めてしまったのか。SNSには、毎日たくさんの情報が集まる。AさんとBさんが新しい情報についてコメントしていた。Aさんは批判していた。Bさんは称賛していた。私は2人の意見に挟まれる形になった。逡巡した。どのようなコメントをすれば、仲間内に波風を立てないか、考えていた。

そういう自分の考えに気が付いて、はっと気が付く。私は、ほかの誰でもなく「私は」どう思っているのだろう。

SNSでは情報を共有できる一方で、様々な「誰かの主張」も同時に得る

情報を受け取り、けれど称賛も批判も浮かばなかった。ただ、誰かが称賛し、批判したそれに、どう反応するのが正しいのかを考えていた。私の気持ちはどこにあるのだろうか?

そう思ってから、自分の気持ちを振り返る。振り返ってショックを受ける。私は長いこと、素直な自分の気持ちで、何かを受け取っていなかったかもしれない。受け取っていたとしても、その情報には前情報があった「〇〇さんが称賛、もしくは批判した情報である」という前情報が。

SNSでは、情報を共有できる。しかし、SNSの大きな特徴として、共有される情報には、すでに誰かの主張や感情が乗っていることが非常に多い。情報に上乗せされて、他人の感想、称賛、批判……様々な誰かの主張と同時に、情報を得る。

流されやすい性格の私は、誰かの主張を見ると「ああそういうものなのか」と受け取ってしまう。私はもしかしたら、ずっと自分の気持ちを放棄していたのではないだろうか。純度100%の自分本来の気持ちではなく、誰かが手垢をつけた、誰かの主張を前提に、考えてはいなかったか。

手垢のついたSNS情報では、「手垢のついた感情」しか沸かない?

それから、私はSNSで誰かと繋がることを止めた。情報を手に入れる速度はとても遅くなったように思う。けれど、誰かの称賛や批判はそう簡単には聞こえてこない。入ってくる情報のすべては、私が、受け取ればいい。

称賛でも、批判でも、自分の好きなようにしたらいい。情報を見て、私が「嬉しい」と思ったら、それが全て。もしかすると、遠くの場所で誰かが批判しているかもしれない。

けれど、私はとっくに嬉しいと思った。後から誰かの気持ちを聞いても、私の気持ち自体は決まっている。私の気持ちに入り込む余地はない。すごく当たり前の話だけれど、私はいつの間にか、この当たり前を出来なくなっていた。

SNSでは、多くの情報が既に誰かが触れていて、私は手垢のついたその情報を見ることになる。手垢に隠されてしまった部分に、私の見たいものがあるかもしれないのに。

手垢のついた情報では、手垢のついた感情しか沸かない。それはきっと自分自身の気持ちとは少し違うのではないか。

せめて、自分の気持ちくらいは手垢のついていない、純度100%の自分の気持ちで。あの日、SNSとのかかわりを見直したから、今私は純粋な自分を大事にできているのだと思う。