中高生の時に思い描いていた24歳は、もっと大人だと思っていた。
よく聞くフレーズではあるが、実際に歳を重ねるたび、実年齢と精神年齢が追いついていないと感じる。とはいいつつも、知らないうちに私も、大人になりつつあるのかもしれない。
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私は「不変」が好きだ。
しかし、大学時代、中学校の同級生たちと遊びに出かけて話している時、ふと「クラスでくだらない話をしてワイワイしていた、あの時の私たちはもういない」と感じたことがあるのを覚えている。なんでそう思ったのかは忘れたが、その時に、なんとなく歳を感じた。
歳を重ねても、あの時の楽しいまま、どうでもいいことを言い合って笑ったり、怒ったり、悲しんだりしているんだろうなと漠然と考えていた。だが、それは中学生だからできたことであって、20歳を超えてしまうと、そんなくだらないことでは笑わないし、怒らないし、悲しまない。
歳を重ねて色々と経験していくうちに、価値観も変わり、不変でいてほしいと願うものは、私を含め、全て変わっていく。
学生時代、同級生たちとたむろする場所は、決まって近くのファミレスだった。それが大学生になると、居酒屋や一人暮らしの友達の家になり、飲むものは専らお酒になる。
もちろん、そこで話題になる内容も変わっていく。
集まると学校でのくだらないことや、進路の話をしていた学生時代だったが、大学を卒業して社会人になると、これからの人生設計の話がリアルになってくる。
学生時代にしていた、いわゆる「恋バナ」は次第にディープな話になり、今後の話が挙がると、やれ転職だ、やれ結婚だ。形が見えそうで見えない曖昧な将来について、漠然とした不安を語り始める。
社会に出て働き始めると、みんな現実を見る。学生時代に憧れていた世界は目の前にはないし、この現実をどう生きるか、どう打破するかを考える他ないのだ。
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そして、社会人になって2年目。大学時代の友達と久しぶりに会って話していると、今まで同じような価値観を生きてきた私たちでも、違う環境で働き続けると、お互いの思考が変わってしまったと感じて寂しくなった。
大学卒業までは、いいと思うもの・こと、これからどう在りたいかなど、今まで似たような考えを話していたのに、社会人を2年経ると、お互いの思考はすっかり変わってしまった。
きっと、彼女とは大学時代には、こんなこと話していないだろう。
私が知っている彼女はもう目の前にはいないし、同様に彼女が知っている私も目の前にはいないのだろう。
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こうなると、不変を生きるのは不可能なのだと改めて思い知らされる。
まだ心は20歳くらいのままでいるつもりだったが、知らず知らずのうちに実年齢まで近づいてきている。学生時代に思い描いていた24歳は、憧れで作られていただけで、実際の24歳はこんなものなのだろう。
きっとまた30代が近づく頃には私も周りのみんなも変わっているはず。
社会の現実を見て、学生時代の懐かしさと過去への懐古を抱え、私たちは着実に大人へと成長しているのだ。