100万円があったなら……。そんなテーマを聞くと妄想が花開く。

大好きな浅草の花やしきに毎日行きたいだとか、中野ブロードウェイで値札を見ずに好きなものを思いきり買いたいだとか。

けれどそれは妄想の私だからなせる浮足立った荒業であって、もしも現実に……宝くじが当たるなりしてドンと札束を、なんの苦労もせずに大金を、目の前に置かれならば、さすがに私利私欲の為だけには使えないと思った。
妄想ではあるけれど、現実の気分で、浮足立たずに考えてみた。結論は意外と簡単に辿り着いた。

もし現実に100万円を苦労せず手にすることになったら……私は花やしきにも中野ブロードウェイにもいかず、私はその100万円を使って、オーディションを開催するであろう。
オーディションと言っても別にアイドルグループを組もうというわけではない。秋元康になろうってわけではない。
オーディションというと少し語弊があるかもしれないが、私は作家や詩人、歌人を対象にして、最後の1名に選ばれた暁には本を「出版」出来るというオーディションを行いたい。そう思いついた。

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私は2019年にエッセイストとしてデビューし、1冊の本を世に送り出した。そして2022年、処女作の加筆修正版を出版することが出来た。
だが、今は出版不況と言われている。「鬼滅の刃」のヒットで漫画の単行本をクリスマスや誕生日プレゼントにねだる子供が増えたと聞くけれど、業界に潜む不況という鬼は全集中でも吹っ飛ばせぬようだ。

面白い作品はあれど、人口が減ったせいなのか、はたまた本以上に面白い娯楽がこの世にあふれているからなのか……多くの書店が歴史に幕を閉じ、その一方でテレビCMでは度々電子コミックのサイトの広告を目にする。いつの間には私達が従来「本」と認識していたものが「紙の本」と呼ばれたりし始めてる。紙の本ってなんだ、そもそも本は紙じゃあ、と小さく吠えてみるけれど、若い世代や私と同年代の友人にも「本はすべて電子」という人がいる。

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私は本は「紙の本」が好きだし、愛着がある。大きな書店の閉店や、慣れ親しんだ雑誌の休刊の一報を耳にするだけで「人類は絶滅します」とでもいわれたような絶望感で右ストレート、ぶん殴られる。だからつい「電子の本」に対して畏怖・恐怖を帯びた敵視の視線を送ってしまうけれど。

新しいものを拒むとどうしても頑固親父感が否めないし、「絶版になった本を手軽に読める」や「紙の書籍よりも低コストで作品を世に出せる」や「かさばらない」などの利便性を説かれたらぐうの音も出ない。

どちらも本は本だし、「電子の本」は「紙の本」を絶滅させる為に産まれた侵略者というわけではないし、敵視するなんて虚しいだけなので新しいものにもいいところも悪いところもある。古いものにもいいところも悪いところもあるから、折り合いつけていこうや……と行きたいところだが、世の中は新しいものや手頃なものを優遇しがちである。

「紙の本」を書店で買うよりも、サイト内のポイントシステムだったり、何話無料という宣伝文句に釣られて「電子の本」に手を伸ばす人がどんどん増えると、いずれ「紙の本」は手軽に買えるものではなくなってしまうかもしれない。

漫画や小説というコンテンツは電子で配信されるものとなり、紙の本は昔の貴重な品として博物館に飾られるもの、庶民は手が届かない代物になってしまうかもしれない。
私はそうなってほしくない。それは私が「紙の本」派だからでもあるが、「紙の本」を出したものだからでもある。

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はじめて自分の本を手にとった時の感動を、私はありありと記憶している。
作者献本用と記された茶色い段ボール。段ボール箱なんて中にみかんが入っていようが、雑貨が入っていようが段ボールが入っていようが大差なくどれもただの段ボールに違いがないが、中に自分の本……が入っているのだと思うと、透視も出来ない癖にその茶色い側面を見つめて胸が高鳴った。

乱雑に取っ払うガムテープ、その中で梱包用の紙に……まるで母の腹の中の胎児のようにくるまれていた自分の筆名が記された本があり、それをゆっくり手にとって重さを噛み締めた感覚を私は一生忘れることはないであろう。

「こんな形になる予定です」と、From編集さんのEメールに添付された画面で表紙のデザインは見ていたので、「ほう、こんな形になるのか」とは分かっていた。
でもそれがニ次元の平面世界を飛び出して、いざ三次元の世界、現実に自分の手の中に重くはないけれど、でも確かに重みを持って存在していると、なんだか目の前がチカチカときらめく不思議な現実味のない興奮と、湧き上がってくる歓喜で体がどんどん熱を帯びた。
もしかしたら父親というのはこんな感覚なのかもしれない……妻の腹の中やエコー写真でこれが我が子だと言われても実感が、体の形が変わったりする母親に比べて、身を持ってわかないけれど、いざ子供が誕生して「これが俺の子か!」と噛みしめるような……と私は女なのに父の気分だった。

何故か無意識的に我が子のような自分の本を抱きしめてみたり、ぺたぺたと触った。
今まで何冊も本に触れてきた。だが、自分の本の感触は同じ紙でも同じではなかった。触れたら触れたぶんだけ顔がほころんだ。
私はこの感動が過去の遺物になってほしくはない。願わくばひとりでも多くの人がこの感動を味わってほしいと思う。だから私は100万円を使って作品を書籍という形にするオーディションを開催したい。そして受賞した人にはその100万円で……自費出版でも同人誌でもいいから書籍という形にする手助けをしたい。

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本来そんなことはめちゃくちゃ売れて印税だけで生活できる大御所、例えば鳥山明クラスがやることであって、私のような新米がやるのはいささか背伸びしすぎで、足の指先が折れそうだ。そもそも無名のエッセイストの私がオーディションなんてやっても誰も食いつかぬかもしれない。

でも私はもしなんの苦労もせずにぽんと100万円を渡されたら、そんな行動に出るだろう。
ひとりじめするよりも、分け合うほうが素敵だ。自分の為に使うのは貪欲すぎる気がする。
かといって金は天下の回り物という言葉もある。自分で稼いだ金ならば貯蓄すべきだが、意図せず私の懐に降って湧いた金ならば使うべきである。それも自分の為ではなく誰かのために。そしてそれが誰かを感動させて、大好きな紙の本のためになるのならば万々歳である。

このエッセイを書いているのは2022年12月30日。明日は年末ジャンボの発表である。もしも100万円があたったら、こんな道を考えている。
もしも何千万、何億が当たったならばオーディションで選ばれる何分の1という分子をどんどん増やせばいい……絵に書いた餅なんて言葉があるけれど、私の場合は脳内の100万円と数多の本が現実になるのを待っている。