ちょっと心が辛いとき、いつもより少しだけ頑張らないといけないとき、無意識に彼の名前が口から溢れてしまう。
それにより、私の背中は押されているのだろうか。私にかかる重荷を軽くしてもらってるのだろうか。
別に呟かなくてもいいのだけど、きっとこれは癖だ。「よし!」の代わりだ。

そんな彼が婚約をした。
私の知っている範囲で2名ほど、婚約破棄をくらった者がいるので、まだ「確定」でないにしろ、まあ、ほぼほぼ結婚みたいなもん……と思っている。
彼が結婚しようと、逝去しようと、連続殺人犯になろうと、口から漏れ出すものは仕方がない。

◎          ◎

この世に誰1人として、そして法律でさえも、私が生活のなかで彼の名を呟くことに対し、咎め、罰則を与えることはできない。
ただ、無意識にほぼ既婚者の名前を呟く女になっただけである。そして、いつか「ほぼ」は消える。

婚約者の左手の薬指にはハリーウィンストンの指輪がはまっている。彼の年収を考えると百数十万円のものだろう。
ハリーウィンストンの婚約指輪は多くの女性の憧れだと認識している。女性の憧れが百数十万円で買えるなら安い。そんな婚約指輪をくれる余裕のあるパートナーを持つことが憧れなら、それもなんだか安い。

なんて。分かっている。そういうことじゃなく、最愛の人がいて、その人も自分と同じ気持ちを持っていて、結婚をしたいと思ってくれている。加えて、そういう余裕とロマンチックさも持ち合わせていることが憧れと言いますか理想なのでしょう。しかも、それはあくまで結婚方面に対しての理想であり、人生における幸せ要素のひとつに過ぎない。ゴールじゃない。

ハリーウィンストンの婚約指輪は象徴であり、女性の幸せ本体ではない。
「百万円の使い道」というテーマに対してこの話題。まさか御主……。
いや、別に100万円降ってきたらハリーウィンストンのダイアモンドの指輪、私も買っちゃおうとか、そういうエッセイじゃないよ?
そりゃ、彼の婚約を知った夜に5分間くらい思ったけど。霞ませようと思って。思ったんかいってね。

◎          ◎

100万円降ってきたら、何に使おうか。
そう思いながら街の中を1日中、人と物を見て歩いたけれど、今の私では有効活用できる気がしない。
モンクレールのダウンコートを着ている婦人を思わず見つめてしまうのは、彼と彼の婚約者が着ていたから。ワインセラーも同じような動機。
いっそ、彼の代わりになる存在が欲しいな。今度はそいつの名前を呟こう。
いいじゃんいいじゃん……。

冗談。人間もその人の気持ちも、私の気持ちも、お金では買えない。
でも、それくらい滅入っている。実は。
どんなに大金を手に入れようと、それを有効活用できる私でないと溝に捨てたも同然な使い方しかできない。降ってきたからこそ、思い切って使ってしまってもいい気がするが、少しは有効活用しなくては落としてくれた人と、このテーマに素敵なエッセイを寄せている人に申し訳ない。

今の私を元気付けてあげられるものって何だろう。

そうだ、カーテンかもしれない。カーテンどころか、別にインテリアにも興味がない私だが、ふとそう思った。
1間分ではなく、両開きの1窓分のカーテン。
100万円の高級カーテン。どんなカーテンだろう。それに見合う部屋も窓も家具も無いけれど。
厳しい闇夜から私を、朝の優しい陽の光が訪れるまで守ってくれる、大きくて頼もしいカーテン。
上質で美しい糸を織ってできた生地には芸術的な模様が浮かんでいて、形、デザインも凝っている。

◎          ◎

私はそのカーテンを背景に自撮りも物撮りもするし、SNSに上げるし、スマホのロック画面にして眺める。ちょっと辛いときとか、彼の名前を呟くのではなくてカーテンの写真を眺めればいい。
子どもみたいに、ぐるぐる巻きになって遊んでみるし、芸術品を鑑賞するみたいに、カーテンを前に優雅にコーヒーを飲む。

万が一自殺するなんてことになった時は、そのカーテンに灯油をかけて火をつけよう。
天命を全うして死んだなら、棺の中で安らかに眠る私は生花ではなくてそのカーテンに包まれて焼かれる。

我ながら素敵な「百万円の使い道」だ。
本当にロクなことを考えない。こんな考えのうちは、百万円なんて降ってこないだろう。
でもハリーウィンストンの婚約指輪をくれる最愛の人くらいはやっぱり現れてくれてもいいんじゃないの、とは思う。
あれ、そっちのほうが贅沢なお願いですやん。