中学の家庭科の授業を毎回食い入るように、真摯に受ける人はそうそういないと思う。私の学校でも大抵の人がテスト前、思い出したかのようにプリントを見るくらいだった。
それで9割以上の点数を取るのは難しいことではなかったから、先生側も大体同じような認識なのだろうと思っている。そして生徒はテストが終わった途端、内容をほとんど忘れてしまうのだ。
でも、そんな家庭科の授業で私が忘れられない、大切にしたいと思った一言がある。

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あれは消費についての授業だった。
販売価格や内容量、原材料、製造法、会社の理念などの違うA社とB社が同じ商品を販売している。私達は2社の違いからどちらを選ぶか考えるよう言われた。時間を取った後、先生が男子生徒に意見を求めた。
絶賛、中二病と反抗期の合併症を発症中のその子は、気怠そうに「どっちでもよくない?」と言った。

「えー、そんな適当に決めるん?買うってことは応援するってことなのに?」
先生なのに、中学生女子のような、かんに障る非難的な声色だった。でも、真面目さを隠すためにわざとそうしているような感じがした。真面目さの比率を上げて、さらに続ける。

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「私達が払ったお金で会社は利益を出して、それで従業員のお給料を払ったり、その商品を作り続けたり、新しい商品を開発したりするんだよ?
例えばその会社が環境破壊してても、どこかの国の人を低賃金で働かせていても、健康に悪い食品添加物を使っていても、私達が買うからそれは続くんだよ?
嫌なら買わなければいい。それが私達消費者にできる唯一で最強の抵抗だから。環境破壊反対、貧困解消って言ってても私達がそういう会社や企業の商品買ってたら、こっちだって同罪じゃない?」

男子生徒がうっと言葉に詰まる。面倒だから取り合おうとしないのか、先生に納得したからなのか、斜め後ろの席から見える表情からは判別できなかった。けれど、私はその言葉に胸を突かれた。
「買うってことは、応援するってことなんだから」

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お小遣いをもらっていなかった小学生までは、もらっていいんじゃないと大人に言われ、拾った1円玉に喜び、罪悪感を抱いた。たった1グラムのアルミで胸をいっぱいにできた。
中高生の時は、財布を開いてお金を出すというのがいちいち勇気のいることだった。たとえ100円でも、私は何回も買うか迷ってお店の前を行ったり来たりしたし、手にとってはそっと置いてを繰り返した。周りの大人からしたら100万円のものでも買おうかというくらいの迷いっぷりだったと思う。

そしてあの授業から5年が経ち、一人暮らしやバイトを始めたこともあり、お金を使う機会もずいぶん増えた。今は100円のシュークリームやアイスが、手に取りやすいちょっとしたご褒美として位置づけられている。
財布の紐は未だに固い方だと思う。けれど、これでも段々お金を使うことへの特別感が薄れている。きっとこれからはもっと薄れるのだろう。

でも、あの時の先生の言葉は胸においておきたい。
私にとってお金の価値がこれからどう変わろうとも、商品を選ぶということ、選んだ商品を買うということ、それは一つ一つがなおざりにしてはならない大切な決断であるということを。
買おうとするものが100円でも100万円でも、考えるべきことは同じだということを。