排泄と似ているかもしれない。それか、吸った空気を吐くこと、スマートに言うならアウトプット。
自分の心の中で溜まっていた気持ち、もやもやを目に見える形に言語化し、他者に伝えるのが文章を書くということ。

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話すこととの違いは、一度言葉を紡いだら文字として目に見えて残ること。だから話し言葉よりも格式高く、ちゃんと書かなきゃと思うことが多い。
私自身も、エッセイや小説を書こうとすると、なんだかかしこまってしまう感覚がある。
自分らしさを愛するがテーマの「かがみよかがみ」でエッセイを積み重ねることによってだいぶかしこまりは軽減されたが、文章はどこか美しくなきゃいけないと思ってしまう節がある。
それでも文章を書き続けるのは、人に何かを伝えたい、届けたい、私のことをわかってほしい、そんな気持ちが絶え間なくあるからだ。

エッセイなら、自分の悩みやコンプレックス、なかなか口では言いにくいことを赤裸々に書くことで、消化不良を解消したり、小説なら、自分の意見を主人公や登場人物に忍ばせて、読者に自然と届けようとしたりする。
全部がうまく書けることなんてないけど、それでも文章を書ける能力を持っているなら私はそれを使いたいと思う。
根本に、人と繋がりたいという気持ちが強い私は、相手の深いところに触れられるのが文章なのではないかと思う。音楽もそうだが、いつでも反芻することができるし、心のそばに置いておくことができる。

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私にもずっと忘れられない小説の一文がある。
いつか私の書いた文章も、大勢の人、その中のたった一人の人、またそれ以外の誰かの心に深く突き刺さる日が来たら凄く満たされると想像する。
ちなみに私の夢は芥川賞を取って、私のそばからいなくなった人たちに気づいてもらうこと。

ここまでが、人に向けての文章を書くことだとしよう。
その上で私は自分のためだけに文章を書くことが1番多いと思う。それはTwitterの鍵アカウントでの発言だ。気の知れた友人数名だけが相互フォローをしているそのアカウントで放つ文章が、1番素の私の言葉だと知っている。

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短い文章を発信するのに便利なTwitterは、今湧き出た言葉を口にするような感覚に近いと言える。
辛い。もう無理。死にたい。
例えばこんな風に、負の感情を言葉にすることはさぞ簡単だと思う人もいるだろう。でも私は、人によってそのハードルの高さが変わってくると思う。私は、少し躊躇してしまう。
誰かを傷つけてしまうかもしれない。誰かを不快にしてしまうかもしれない。そう思うたびに抑圧される自分の心がわかるようになった。年をとるたびにそう思うようになった。
だけど、誰にも包んでもらえない抑圧された自分の心はどこで救われればいいのだろう。そう考えた時に、鍵アカウントを作った。それ以降、付き合いの長い友達にしか見られていない鍵アカウントは、お互いがお互いの叫びを黙認するようなものになった。それが案外心地良いのだ。

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暗黙の包容力のような、レスポンスがないことに少し寂しいと感じるわがままな夜もあるが、その鍵アカウントの存在が、今の私の精神を支えてくれていると言っても過言ではない。これからも使っていこうと思っている。
そして面白いのが、そこで過去に呟いた自分のツイートを見返すと、今の自分に必要な言葉がたくさんこぼれ落ちていたりするのだ。冷静でいられなくなった時、私はよく過去のツイートを見返すのだが、自分の言葉に自分が救われる感覚は案外心地よいものだったりする。

文章を書くということは、最終的に自分の現在地を確認することができる手段とも言える。迷った時に書き記した言葉も、やがて時間が経てば、また迷った自分の心の背もたれになってくれるだろう。これからも私は、文章を書く自分を愛して生きていく。