以前、様々な著名人が出演して、自身の第2の故郷を再訪するテレビ番組があった。私はその番組が大好きで、時に海外の街を歩くその有名人たちに憧れていた。
そもそも生まれ故郷である東京に愛着を感じられなかった思春期の少女にとって、まだ見もしない壮大な土地を想像することは、恋愛に似ていたのかもしれない。
私も成長する過程で様々な土地を踏んで、生まれ故郷とは違う地に愛着を持つようになるのかもしれないと思っていた。

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時は流れて2023年。第2の故郷を思い浮かべても、「これだ!」と思える風景が出てこない。
一番熱心に向き合った場所と言えば……どうぶつの森で作った島?あそこでは釣りをしたり、島の隅々まで走り回り、かなりの数の友だちも作ったから、1番それらしい気がする。
学業、転勤、結婚などを通して、私たちは様々な場所と関わることは確かだと思う。それでも、そこに気持ちを置くかどうかはその人の性格に大いに因る。
ふるさとと言える場所がなくても悪いわけではない。故郷に愛着が湧かないから冷たい性格だと思われることはあるが、そもそもなぜ土地に親しみを強くもてるのかが分からないのが本音。
ワールドカップでは日本を応援するし、駅伝では出身大学の行方が気になる。でも、それだけでは足りないことは、誰よりも思春期の頃の私が物語っている。確かに私は故郷に憧れていたから。

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そんな折、熊本旅行を通して、なぜ故郷に愛着が湧かないのかではなく、どうして愛着が湧くのかを考えさせられた。
それは熊本で行われた、とあるアーティストのライヴ会場だった。

地方公演とあって、ライヴに合わせて故郷に戻ってきた人、ずっとその土地に住み続けている人が多いようで、地元トークがとても盛り上がっていた。たまたま居合わせた外の人間である私は、その光景がやけに優しく記憶に残った。そしてやはりどこか羨ましかった。
ライブ終了後のSNSでは、地元公演に参戦できたことへの感想が多く見られた。自分が生まれ育った街に推しのアーティストが来てくれたことへの感動、通い慣れたお店の話題がMCで出たことへの湧きあがるような喜びがひしひしと伝わってきた。

そんな文字を追っていくうちに、もしかしたら彼らは、非常に鮮度の高い独占的な思い出を故郷に持っているのかもしれないと思った。
ただの記憶ではなく、とても個人の中に入り込んだ、自分だけの特別なものとして、いつでもフレッシュな状態で語り出せるくらいの確固たるもの。言うなれば、彼らの一部であるくらい密接に繋がっているのかもしれない。
だからこそ、時が経っても感情に訴えかける重みがあるとも言える。

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一方、東京、その中でも行政地区に近いエリアで育った私は、どこかその土地を自分だけの特別な場所だと思い切れなかった。国内外問わず様々なバックグラウンドを持つ人が集まっており、メディアに登場する物は自転車に乗れば手に入る距離感。これを「私だけの」と独占的な思い出に変えることはとても難しい。どこか故郷を見る眼差しが客観的なのかもしれない。

苦い記憶があるから愛着が湧かないのではなく、みんなの土地だから親しみが薄いという表現が合う。これは私だけの感覚なのだろうか。都市部でなければ違ったのだろうか。
この答えは、たられば話になってしまうために出せないが、もしかしたらこれから出会うことになるアナザースカイをそっと期待してはいる。