創作物や日記といった、自己の世界をカタチにしたものは、数年経つと決まって共通の言葉でひとまとめにされる。
黒歴史。
その呼び方をされる度に、自身の作品でなくても可哀想だと思ってしまう。
私たちは変わる生き物だ。
生きていく中で出会い、経験することで、趣味趣向、考え、価値観など変わっていく。
カタチにした当時はそれが正であり、自分そのものだったはず。
昔の作品を見て違和感を持つのは、きっと自己が変化したからだろう。

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だからと言って、それを恥ずかしいもの、人様に見せられないものと括るのはまた違う話。
ネガティブな言葉でそれを否定してしまうことは、今を形作る過去の自分さえも馬鹿にしていることになるのではないだろうか?
私はアンチ黒歴史派として、ここに宣言する。
私たちが作り出したすべてのものは、私たちが歩んできた軌跡であると。
かっこよくいうならば、マイトラジェクトリーなのだと!

この一年、私は多くの文章を書いてきた。
エッセイに関しては、毎日の経験の中で感じた違和感や学びを掘り下げ、今後自分がどうありたいか、社会にどう関わっていけるのかを綴ってきた。
それまではスルーしてきた違和感について、自分が納得できる回答を追い求めること。
無意識になあなあで生きていた自分を見つめるための一種の十字架でもあった。
エッセイを書くようになって、世の中の違和感に対して敏感になったように感じる。
今見返すと、今と少しだけ違う考えを持っている内容もある。
それはそれでいいと思う。
当時からさらに多くの経験を経て、私自身アップデートされているのだから。
そんな変化を感じることができたのは、過去の自分が考えを文章として視覚化していたからだ。
まさに、軌跡。マイトラジェクトリーである。

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小説に関しては、どちらかというと妄想に近いため、各々を比較することはしない。
ただ、その時々で自分が何に興味を持ち、どう表現していたかを見返すことができる。
恥ずかしながら、書き始めた頃の文章はお世辞にもうまいとは言えない。
ただ、一つ言えるのは、当時は、もうこれ以上ないくらい上手く書けたと思っていたこと。
拙い文章が賞を取ると本気で思っていたのだ。
まだ数ヶ月前のことにも関わらず、親心のような気持ちで当時の文章を読み返す。
ここはこういう表現をしたらわかりやすいのではないだろうか。
そういった反省が自己の成長を促している。
人に評価されなかったとしても、必ず自己の糧になっているのだと、多くの文章を書いてみて気づけたことだった。
まさに、軌跡。マイトラジェクトリーである。

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どうだろうか。
これでもなお、過去の自分の作品が恥ずかしいとか、他人の作品を見て嘲笑するような人がいれば、真っ向から戦うつもりだ。
文章を書くというのは、想像以上にエネルギーを使う。
本来、自分の想いというのは他人に見せる必要のないものだと思う。
それでも、こうしてパソコンを開き、言葉を紡ぐ。
そこには、作者の並々ならぬ信念や想いが宿っているのである。
まさにその人の人生そのものと言っても過言ではないのだ。

私は今日も胸を張って文章を書く。
自分の歩んできた人生をここに記す。
自分のために、そして私の軌跡によって誰かの軌跡が照らされることを祈って。