私には、ふるさとがない。
確かに、生まれと育ちの大半を過ごした土地はある。でも、それももう思い出したくない実家の毒親や学校のいじめっ子たちによって汚されてしまった。今ではできれば二度と近寄りたくない土地となってしまった。だから「今度の休暇、ふるさとには帰るの?」といった類の何気ない質問でも、私にとっては聞かれるたびにモヤモヤする。
「今住んでいる場所以外に帰る場所」がある感覚もわからないのに、それをどうやって他人に説明できるだろう。でも、ふるさとがあることが当たり前な大半の人たちにとっては、そんなことは想像すらできないのかもしれない。
かと言って、私には「第二のふるさと」のようなものもない。そもそも、一つの特定の地域に愛着を持つという感覚がよくわからないのだ。

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生まれてからこれまで、平均して3年に1度以上のペースで引越しを繰り返してきたせいだろうか。それとも、とりわけ特色や誇れるものがある地域に住んだことがないからだろうか。それもわからない。

そんな私が、「ふるさと」という言葉から真っ先に連想するのは「ふるさと納税」である。
決まった範囲内で自治体に寄付することで、その額に応じて翌年の住民税が控除されるだけでなく、自治体から返礼品がもらえる制度だ。私がふるさと納税を活用するようになってから、既に数年が経つ。
ここでの「ふるさと」は、自分の本当のふるさとである必要はない。私は少しずつ色々な自治体の返礼品を選ぶことが好きで、年の瀬には既に来年は何が欲しいか考えたり、もっと多くの自治体にふるさと納税をするために年収を上げたいという思いに駆られることもあったりするくらいだ。

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お得であるという以外に私がこれほどまでふるさと納税に魅せられている理由があるとすると、様々な土地との繋がりができ、その上普段なかなか賞味する機会のない返礼品と出会えるからだろう。ふるさと納税の制度がなければ、おそらく名前を知ることもなかったであろう見ず知らずの土地に思いを馳せることも、改めて考えてみれば楽しみの一つである。

そこには素敵な返礼品の生産者をはじめとする、その土地で生活する人々がいる。返礼品を開封する私は自宅アパートの一室にいながら、数ある日本の一自治体にすぎない、けれども同時に縁あって私と繋がったその土地の光景が目の前に広がるような感覚になる。

自治体は寄付者に感謝し、寄付者としての私は素敵な返礼品を送っていただいたことに感謝する。大袈裟かもしれないが、相互に心が通い合っているという意味では、私は今まで住んできたどの自治体よりも、ふるさと納税をしてきた自治体に強い結びつきのようなものを感じている。

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冒頭で述べたように、私にはふるさとがない。
でもそんな私でも、これまでふるさと納税をしてきた自治体の数だけ、「ふるさと」があるという考え方もできる。
それらのどの土地にも私は行ったことがないし、もちろん「帰る」先でもない。確かに縁はあったかもしれないが、単に「袖振り合う」程度のものかもしれない。形に残らない返礼品なら、消費した後は、正直その自治体のことを思い出すこともほとんどない。
やはりどうしたって本物の「ふるさと」にはなり得ないのだと寂しがる私がいる一方で、でも制度の名前にあやかって、それも一つの「ふるさと」の形でいいかもしれないと、今の私は思っている。