「食べることが好きで、それが高じて料理もするようになったんです」
なんていう人は、結構多いと思う。わたしの場合、小さい頃から「読むこと」が好きで、だから「書くこと」というのはとてもナチュラルにその延長線上にあった。

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図書館に行き、貸出冊数いっぱいまで本を借りて、袋をぱんぱんにして帰路につき、帰ってきたらその本を床に広げてどれから読もう、と楽しく考える。今も昔も読むことが大好きだ。
小さい頃はとりわけ、お菓子の袋の裏面や、新聞の中吊り広告など、文字ならなんでも読んだ。だから自分で文章を生産して、自分でそれを読むことも好きだ。
昔は文章を書く仕事につきたいと思っていた。なんとなく恥ずかしくて、学校で「将来の夢は?」と言われるような機会にはちょっとお茶を濁して、例えば「翻訳家」とか言ったこともあったけれど、本当はそうじゃなくて、自分の手で生み出される自分の言葉がとても、好きだ。
それは今でも変わらない。むしろ大人になってしばらく経つ今こそ、その心強さを感じることが増えるようになってきた。

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時が経つにつれ、文章を通じて人に何か伝えたいというより、自分のために書くことが多くなったように思う。もちろん、他人向けの文章も、世間一般に見たら書くのが好きな方だと思う。
大学院に行っていたので、何十万字と論文を書いたこともある。その時は、「書くこと」に関してまったく苦ではなくて、あぁわたし本当に書くのが好きなんだなあと笑ってしまったほどだった。
でも誰かに向けて文章を書こうと思った時、どうしても主張や批判になってしまうことがこの世ではとても多くて、なんて取り扱いがむずかしいのだろうとも思っている。
もちろん文章は主張や批判のためにも存在しているのだけど、良識のある文章というのが白磁のシンプルだけどとても美しく、手になじむようなお皿だとしたら、世に溢れる多くの文章は絵柄が多すぎたり、変な装飾が余計についているお皿、という感じ。

対して「自分に向けた文章」をお皿に例えるとなんだろう?自分でろくろを回して作った、土の香りがしてきそうな、不恰好だけど愛おしい形のお皿かな。わたしにとってその最たる例は、10歳くらいの頃から実に18年、毎日欠かさずつけている日記であろう。
その日起きた出来事の多さによって長さは日毎に異なれど、欠かすことなく続いてきた習慣で、これがものすごく財産である、と昨年初めて気づいた。

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写真や動画でなんでも簡単に記録を残すことができる現代だけど、その時自分が何を感じていたかというのは、どんなに心が動いたことでも意外と忘れてしまう。そりゃそうだ、毎日次から次へと新しい情報や体験がこんなにインプットされるんだもの。
忘れてしまうことを時に悲しくも感じるけれど、わたしは「思い出す」という瞬間が大好きだ。ああ、あんなことあったなあ!あんな感情だったなあ!と思い出すと、「覚えていた」状態よりも余計嬉しい気持ちになって、お得感があるなあと思う。そしてそれを促してくれるものこそが、自分の文章なのではないかと思うのだ。

そのとき、わたしはどんな日々を過ごして、何を見聞きし、何を考えていたのか、それが18年分も残っているというのは、とても嬉しいことだと思った。知識や技術は今からいくらでもつけることができるけど、自分の人生、今から18年分遡ることは不可能なのだから。
あの時大変だったねと、過去の自分を抱きしめてあげたくなることもあれば、5年も前なのにけっこう良いこと言ってるじゃないとか、表現は違うけど最近思ったこととおんなじこと言ってる、昔からわたしってブレてないんだわと、頼もしくなることもある。

自分のためだけに書かれた、飾り立てられていない文章は、いつものびのびしていて、素朴で、かつダイナミックで、案外核心をついていたりする。それを読み返して新しい発見もあれば、気持ちを確かめ直すこともある。
わたしはこれからも、わたしのための文章を書き続けたいと思う。