私のふるさとは今、再開発事業が大きく進んでいる。
駅の中心には、常に建設中の建物と解体途中の建物が混在する。あの日あの時行ったお店の場所が遠くに離れたり、憧れの東京のお店が新しく店舗を構えていたりと、街中のその景色は少しずつ、そして大きく変わっていく。
そんな街は私にとって良くもないが悪くもないところである。私にとっては微妙なところだ。

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高校生の頃の私は、自分の街を誇りに思っていた。地方の都市であるが、比較的大きく買い物をするところがある街。多くはないが、いくつかの映画館や美術館や大きな公園、大学がある街。大人気のアイドルグループだって、ドームツアーで訪れる。悪いところはこれといって見つからない。とても満足だ。
そんな私のこの街への認識は、少しずつ変わっていく。

大学生になり、私は東京の大学へ進学した。高校の同級生の半分は東京に進学し、残りの半分はこの地の大学に進学していた。
特にこれと言って自慢になることがなかった大学生の私は、自己紹介の時に必ず自分の出身地を言った。そう言うと印象に残ると思っていたからだ。実際その時、多くの本州出身の人の反応は「よく遠くから来たね!」「寒いところなんでしょ!」という反応だった。そしてそれにはいつだって、「自分にとって未知の場所から来た物珍しいあなた」というニュアンスが込められているように感じた。

私にとってこの反応は予想以上だった。珍しい人間として扱われるのに抵抗があった当時の私は小さな反抗をするかのように、出身地をいう際は「都道府県」で言うことはなく、必ず「市」で答えていた。まるで自分が田舎者ではないというせめてものアピールをするかのようだった。

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この東京での生活はとても刺激的だった。
ハイブランドの専門店やセレクトショップが多く、洗練されたビルが多いということも確かだが、体験できることもやっぱり多かった。歴史のある仏像を展示する博物館や、科学的に価値あるコアで魅力的なものを分かりやすく見せる科学館、今話題の漫画の原画を展示する原画展まで。大きなテレビ番組に出演するほどではないけど巷で活躍中の人気アーティストのライブだって頻繁に行われている。私の地元でできることの何倍も、ここでは体験できた。
また塾講師のバイトでは、中学から大学まで子どもが選ぶことのでき、なおかつ候補に挙げることもできる学校の数が故郷の何倍も多いことを知った。それが私にとっては静かなカルチャーショックだった。

そして時が経ち、私は社会人となった。
初めて就職した会社で初めて配属された場所は、急激な人口減に直面する、地元よりも田舎の街であった。
そこは私が大好きな外国の食品を扱うチェーン店もなければ、学生時代お世話になっていた低価格帯のファッションブランドのお店も、好きな人が多いあのおしゃれな海外コーヒーチェーンのお店ももちろんなかった(かがみよかがみエッセイ「初任地は、出会いが少ない田舎の街。周囲は既婚者だらけ。理想の結婚生活のためには」参照)。
そこでは住人さえも自分の街を「斜陽の街」と揶揄する場所だった。娯楽はもちろん少なく、多くの若い男性の趣味は釣りかゴルフ、パチンコ、キャンプのどれかに当てはまった。そんな場所出身の子どもは高校を卒業すると、たいていは高卒で地元に就職か、または県庁所在地の専門学校や大学に進学先を選ぶという。ごく数パーセントの子どもだけが県外の大学に進学する。

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ふるさとの街、東京、ふるさとよりも田舎の街の3つを経験した私はこう思う。私のふるさとである街は、私にとって最低限度の街なのかもしれないと。
これ以上田舎には行きたくないなと思う意味で最低ラインの街だ。田舎に行けば行くほど娯楽が少ないから、会える人が少なくなってしまうからである。また将来子どもを育てることが今後あるのなら経験できることが少なくなってしまうからという理由もある。
そして私の偏った偏見かもしれないが、田舎に行けば行くほど、「女(男)は○○であるべき」、「型にはまったきちんとした人間しか受け入れない」というバイアスがありそうで怖い。
そういった意味で私のふるさとの街は、私というものが世間の波に消えてしまわないような防波堤の役割もあるかもしれない。私は可能である限り私らしく生きていきたいと願っている。

この土地と本州の間にはブラキストン線というものがある。これはこの土地と本州を分ける生物分布の境界線であるが、この線はこの地に生息する生き物だけではなく、人にも多少なりとも影響を与えているのかもしれない。
そしてそういった目に見えない線は、わりといろいろなところにあるのかもしれない。