相手に気を遣いすぎて本音で話せなくなったのはいつからだったろうか。
私は、文章を書くことが苦手。言葉にして伝えることはもっと苦手。言わなくても分かってほしいし、察してほしい。だが、言葉にしなければ何事も伝わらないものである。
部活動の引退を目前に控えた高校2年生の夏、互いの意見を共有するという名目で集められたミーティングで、本心を打ち明けた私に友人の一人がこう言った。
「言ってくれなきゃ分かんないよ」

もちろん、自分があまり発言するタイプでないのは自覚していた。私の周りには、女子校ということもあってか、面白い発言をして場を盛り上げる、人を惹きつけるような友人が多かった。彼女らの所謂「ノリ」を崩さないように、場をしらけさせないようにと考えれば考えるほど、言葉は出なくなり、無口になっていった。

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手紙が大流行していた小学生の頃、休み時間にメッセージを書き合い、授業中に先生の目を盗んでは手紙を回し、それだけでは飽き足らず帰宅後は交換日記を書き、毎日ただひたすらに友人と文章を、言葉を交わしていた。
内容はその日の出来事、コイバナ、思い出話、「もし過去に戻れたら……」など話題は尽きなかった。どんなことだって話せたし、共有したかった。それがただ単純に楽しかったし、何でも話せる相手こそが真の友人だと思っていた。

でも、純粋で無邪気だったあの頃とはもう違う。たくさんのことを経験し、学んでしまったが故に、人との距離感も変わってしまったのかもしれない。
10年前の私は、よくつるんでいた友人二人を何の抵抗もなく親友と呼び、全ての行動を共にした。思春期の女子あるあるだが、一人になりたくないという思いが強く、常に誰かと一緒にいたかった。
その思いは中学、高校に進学してからも心の中のどこかにあり続け、たとえ気が合わなかったり、居心地が良くなかったりしたとしても、一人になるよりはましだとすら思っていた。心を許せる友人ができないまま、卒業だけを心待ちに日々を過ごした記憶がある。
今でも同窓会やクラス会開催の連絡が来るが、卒業してもなお会いたいと思える友人は私にはいなかった。ただ一人を除いて。

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昨年末、部屋を片付けていると、一通の手紙が出てきた。高校生の頃、同じ部活に所属していた友人が私に送ってくれたものだった。
年賀状の文化さえ廃れてきた今日この頃、手紙なんて懐かしいなあと何気なく見ていると、一文に目が留まった。
『〇〇(私の名前)は、あまり話さないこともあるけれど、それがあなたのいいところだと思ってるよ』
私は当時の悩みを友人に打ち明けたことはない。それでも、その友人の言葉は間違いなく私の心を救ってくれたのである。
ありのままの自分を受け入れ、それでいいと思えるようになったのは彼女のおかげだと思っている。当時の記憶が蘇り、思わず彼女に連絡をした。

高校生の彼女からの手紙は、これからも私を支えてくれるだろう。文章は、時間も空間も超えて人を救い、助けることがある。
4年ぶりの明日。当時の私を救ってくれたその友人との再会が待ち遠しい。