「死にたいなあ」
これが私の口癖。
そしてもう一つ。
「どうせ、私なんて」
これもまた、私の口癖。

空気が読めず、不適切な発言を繰り返す。そんな自分が大嫌い

私は自分のことが大嫌いだ。
幼少期より家族や友人に迷惑をかけ、不快な思いをさせながら過ごしてきた自覚がある。
それは、発達障害に起因する精神年齢の幼さ(私の精神年齢はどうやら実年齢の2/3程度らしい)、空気の読めなさ、不適切な発言によるものだ。
実際、家族からはよく「〇〇をしたらだめでしょう」「もっと相手の気持ちを考えなさい」と、叱責を受けていた。

幼少の頃はなぜ叱られているのか理解できなかった。
私は私の思っていることを言っているだけなのになぜ怒られるの?
思っていることは言っちゃだめなの?
なんで私のやることすべて否定するの?
そんな被害者意識が先に立ち、相手の気持ちを慮ることができない子供だった。
相手の気持ちが理解できない、それが私だ。

本当の自分を隠して手に入れたのは「聞き上手な〇〇さん」という虚像

そう自覚した中学生頃から、私は自分の感情を押さえつけ、人の顔色を窺って、窺って、そうして相手の気持ちを理解しようと、嫌われないように振る舞おうと必死になった。
そうして手に入れたのは「聞き上手な〇〇さん」という立ち位置。
しかし、それが虚像に過ぎないことは私自身がよく知っている。
本当の自分をひた隠しにし、人の顔色を窺い、常に本当の自分が知られることを、嫌われることを恐れながら生きてきた13年間が経ち、25歳を迎えようとする私は今となっては本当の自分が何なのかわからなくなってしまった。

そして、そんな自分を認められなくて冒頭のセリフにつながるのだ。
「死にたいなあ」「どうせ私なんて……」と。
自分がわからないから自分を肯定できない。自分がわからないから自分を好きになれない。
だから私はこんな自分が大嫌いだ。

しかし、人とは案外そのようにして生きていくものなのかもしれない、とも思う。
自己を殺し、相手に合わせ愛想笑いをしながら生きていく。それが必要な処世術であり、それができるようになることが「大人になる」ということなのかもしれない。
だが、私は思うのだ。それが「大人」だというなら。私は大人にはなりたくないと。
自分の心のままに表現し、自分の意見を言うことの何がいけないのか、と。
私の子供の部分が叫ぶのだ。
「大人になる」ということがこんなに苦しいのなら、私は子供のままでいたい、と。

「大人になる」ことがこんなに苦しいのなら、私は子供のままでいたい

結局のところ私はこの年になってもまだ子供のままなのだろう。
それでも年月が経つに連れ、大人への階段を一歩一歩登りながら、歳を重ねるとともに処世術を身に着け感情の処し方を身に着け、自分を殺すことを覚え、私は確実に大人へとなっていく。
それでも私は「大人」というひどく曖昧で不確かでそして恐ろしいモノとは距離を置きたい。

「大人」との距離を取りながら、うまく「大人」と付き合っていく、それができて初めて本当の意味で大人になるのかもしれない。
私はこれからも歳を重ねていく。そして、身の処し方も心の処し方も覚え処世術を身に着け大人へとなっていくだろう。
でもその中でも、子供の自分を心のどこかに抱えたまま、大人とは程々の距離を置いた人間になりたいと思う。