困った。これは完璧にネタ切れというやつである。
昨日から、「寒かった『あの日』に」という今回のお題を見つめては、パソコンの前でずっとうんうんと唸っている。なのに、何も出て来ない。

冬と言えば、クリスマスにバレンタインデー、お正月とイベントが沢山ある。それでももう書いてしまったのだ、サンタさんの正体を知った5歳のクリスマスも、彼氏にプロポーズされ損なった一昨年のクリスマス旅行も、私にとって「男に振られる時期」であった中学時代の寒かったあの頃も、コロナにかかった今年のお正月も。全て。
残るは、現役の大学受験生のときに、第一志望の国立大学に願書を提出し忘れ自動的に浪人が決まったトホホな話とか、中学時代の体育の陸上競技のとき、唯一輝けたマラソンの思い出などである。
あまりにも情けない話や自慢話としては些細なものなので、これでは2,500字は書けないと踏んだのだ。それでももし読みたいという方がいらしたら、コメント欄までその旨ご教示くださいませ。

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こうも筆が進まないのは、「冬」という季節も関係あるのではないだろうか。
進学や進級、新しい出会いのある「変化」や「成長」の季節である春、全ての人が活動的となり青春の季節である夏、何事も落ちついて物事に取り組むことのできる一番人気の季節の秋と、「冬」は性質が異なる。
冬はただただその寒さ故に、家にこもりテレビなどを見る季節だ。いわば春をただただ待ち忍ぶ「耐え」の季節である。
そんな季節のエッセイの展開としては、「今年もお正月太りした、テヘ☆この自前の鏡餅のお腹をどうしよう、今年の目標はダイエットだ!」というようなものしか構想力のない私は浮かばないのだ。己の凡庸さを突き付けられる、今日この頃である。

それに比べて、やはり、歴史に名を残すエッセイストは違う。平安時代の文筆家、清少納言が書いたエッセイは、着眼点も言葉遣いも美しく、1,000年以上たった今でも学びがある。
清少納言は言う。「冬はつとめて」だと。「つとめて」とは、漢字にすると「夙めて(つとーめて)」となり、「ずっと以前から、早くから」「若い頃から」「朝早くに」という意味である。
つまり、清少納言大先生によれば、「冬は早朝がいい」ということなのだ。

……清少納言よ、ご冗談を。

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冬の朝というのは、我々人間にとって、会社や学校への忠誠心と責任感、そして人間性を、一番試される時間である。朝6時かそこらに何重にもかけたスマホの目覚まし時計を止め、私たちはみな心の中で呟くのだ。「あと10分……」と。
お布団の中はぬくぬくと温かい。その一枚をはぎ取られることは、私たちにとって一番身近な拷問である。これ以上寝ていると本当に遅刻してしまう、となった時、「エイヤ!」と布団から出る。私たちの人生にログインボーナスがあるのならば、この瞬間に与えられるべきである。
部屋にある暖房器具が発達している今でさえこんなに大変なのだ。1,000年以上前の京都の冬の朝の寒さなど、今日の比ではないだろう。……清少納言先生よ、風流ぶろうと、少しかっこつけたな?というのが令和を生きる私の正直な感想である。

しかし、先生はまだ続ける。「雪の降りたるはいふべきにもあらず」と。「冬の早朝っていいよね、雪の降っている朝は言うまでもないよね☆」という意味だ。
こんなに寒い思いをしているのに、先生は雪を心の底から楽しんでいる。

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天気予報士が告げる、翌日の雪予報を心の底から楽しめなくなったのはいつからだろう。
生まれも育ちも東京の私にとって、幼き頃の翌日の雪予報は、突然神様から贈られたプレゼントのようなものだったのに。路傍の霜柱を踏む足の裏の感触を楽しみ、学校の登下校で車や自転車に積もった雪で小さな雪だるまを作り歩き、時には誰も踏んでいない公園の雪にダイブし、魚拓ならぬまよ拓を作っていた私はもういない。
「あーあ、明日雪なのか。電車遅れるだろうから、少し早めに出なきゃなあ」とぼやきつつ、いつもより15分早い目覚まし時計をスマホにセットする。そんな現実的になってしまった自分に、少し切なさを感じる、というのが最近の私にとっての「雪の降りたる」である。

でも、清少納言は、違う。いくつになっても、雪を楽しんでいる。なんなら、「霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし」と、霜や暖房を用意すること自体も、風流だと感じているのだ。
その着眼点、その風流さ。1,000年以上愛されるエッセイストは、やはり私とは次元が違う。身を切るような寒さの中、「自分凡人だなあ」と言うことが、同じ鋭さで私に迫ってくるのだ。

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せめてもの反撃として、令和のエッセイストである私はこのような解釈を付け足そう。
「冬はつとめて」は文字通り「冬は早朝がいいよね☆」という意味だけでなく、ある種のメタファーでもあるのだ、と。
恵まれず辛く耐え忍ばなければいけない時期を「冬の時代」とも言う。「夙に(つとーに)」は「若い頃に」という意味もある。つまり「若い頃には、時に辛い時期や大変な時期も、大人になるために必要なのである」という意味もあるのでは、と。

そんな私のとってのユリイカを胸に、今日はコロナの在宅隔離期間を終え、久しぶり出社の朝である。
10日ぶりの外出。コートにマフラー、手袋に、顔にはマスクで完全防備。でも朝7時に家から出ると、きんきんとした寒さが、全身を貫く。ぼけっとした眠気が吹っ飛び、身体全体が目覚める。久しぶりの外の空気を、大きく吸い吐くと、内側から洗浄され清潔になっていく気がした。
そうだ、これが、これこそが、冬のつとめてだったな。
久しぶりだからそう思うのかもしれないけれど、なるほど、冬の早朝、なかなか悪くない。やっぱりすごいエッセイストなんだな、清少納言って。今回は、私の完敗だ。

次の闘いは「春」の「あけぼの」である。待って、あけぼのって「夜明け頃」じゃん。「起きれないよ、そんな時間に」と闘う前から戦意喪失してしまう私であった。