素顔を見せられる相手は、世の中に何人いるのだろうか。
きっと、片手で数えられるくらいの人数だろう。
私が素のままでいられるのは、大親友と、今の恋人と、家族くらいだ。
新型コロナウイルスの影響でマスク生活が始まり、人との接触を控える動きが出て、ここぞとばかりに、私は長らく苦手だと思っていた、浅く表面だけの人付き合いを一掃し、「面倒だけど、行かなきゃなぁ」と思っていた飲み会には行かなくなった。
職場で、プライベートの話をすることは苦手だし、職場の同僚と、休みの日に会って、ご飯に行くことや出かけることも苦手だ。
だから、職場ではミステリアスな雰囲気を醸し出している方が楽だし、人付き合いが悪いと思われてしまってもいい。
◎ ◎
ここ数年間で、私はやっと、恋人にも素顔を見せられるようになった。
正しく言うならば、素顔を見せられるような相手を恋人にするようになった。
だから、今の恋人に「かおりんってわかりやすいよ」と言われたとき、大成功だと思った。
「今、○○って思ったでしょ」と言われて、図星だった時が嬉しかった。
なぜなら、何も隠しているつもりではないのに、昔の恋人には「何か隠しているよね」と言われるし、本音を言っているつもりでも「本当はどう思っているの」と聞かれていたから。
私が心を許している今の恋人が、彼なりに勇気を出して、素顔を見せてくれた。
お店で出てくるような、味にこだわったパスタをつくる、私の恋人。
ある日、私は、こたつで、彼お手製のたらこパスタを食べていた。
雨の日だからと、一日中家でのんびり過ごしていた。アニメを見たりしながら。
「今甘いものが食べたい気分」という気まぐれな私に付き合ってくれて、晩御飯を食べる前に一緒にガトーショコラを食べていた時。
「今日、伝えたかったことがあって」と彼は話を切り出して、スマホを手渡してきた。
そこには診断テストのようなものがあって、まずこれを解いてという意味なのだと理解した。
体重の増減がないか、よく眠れているか、死や自殺について考えることがあるか、悲しいと感じることがあるか、という質問が並んでいた。
普段明るい私だって、悲しいと感じるときはあるし、自分の死について考えることもある。
4歳の時に、人間の命は有限であるとハッと気づき、いずれ終わりが来ることが悲しくなって、夜に大泣きしたことがある。
死ぬときは出来るだけ苦しむことなく、人生で最も自分が輝いている美しい瞬間がいい。
そう思いながら選択肢を選んでいると、彼は私が選んだ選択肢をのぞき見しながら、少し驚いたような表情をしていた。
一通り質問に答えたあと、診断結果がスマホにうつされた。
「あなたはうつ病の可能性は低いです」と。
◎ ◎
私は察した。
彼が私に何を伝えようとしているのかを。
とっさに私は「何も変わらないし、変えないよ」と言った。
「今知ってしまったから、これから毎日『大丈夫?』って聞くわけでもないし、そうしてほしいって意味でもないよね。私は変わらないし、これからもあなたのことが好きだよ」と。
「地雷つきだって、伝えるべきだって思ったから」と、「うつ病、中度」と書かれた診断結果のスクリーンショットを見せてくる彼。
その画面を見ても、私はそこまで驚くことはなかった。不思議だ。
彼の今までの行動が、うつ病の人のようだったから驚かなかったという意味ではない。むしろその真逆だ。彼は私よりも社交的だと思う。
「世の中には色々な人がいるから、真っ向から反対するのではなく、何事も一回はすべて受け入れる」ように私が心がけているからなのか、私はあまり驚かなかった。
彼に聞くと、うつ病であることは、今までの恋人には打ち明けられなかったと聞いた。
知っているのは、私と仲の良い高校からの同級生だけだと言う。彼にとっては、家族にさえ見せられない素顔。
彼は、本業の仕事に加えて、副業もしているし、浅い表面だけの人付き合いが苦手な私とは違い、職場の同僚とジムにも行くし、飲み会にも行く。とても優秀で賢い人だ。
社交的で優秀な彼でも、ある時、今の人生と現実に絶望を感じたらしい。
30歳まで生きれば、それでいいと思ったらしい。
30歳になったら、この世の中からいなくなろうと決めてしまったらしい。
◎ ◎
そんな話を聞いても、私は取り乱すことも、「なんでそんなこと言うの」と泣き出すこともせず、ただ、彼を抱きしめた。「大丈夫、私は変わらないよ」と言いながら。
「うつ病の恋人なんて嫌だ」と逃げ出すこともしない。
私1人には、他者の人生や考え方を変えるスーパーパワーはないし、「一緒にうつ病を乗り越えよう」と張り切るつもりもない。
彼自身の話であって、私は彼の恋人だろうが、いつか奥さんになったとしても、結局彼を本当に理解することは彼にしかできないからだ。
私は、何かできそうで、実は無力なのであって、私ができる唯一のことは、彼と素直に向き合うことだと思う。
そう、「かおりんは、何でも受け入れてくれるから安心する」と言う彼のために。