私は普段、文章を書くことはほとんどないです。惨めな気持ちの時や、悲しみを口に出せない時に、思っていることを吐き出すためにペンを取る程度です。

私にとって、文章を書くということは紙との対話であり、自分との対話でもあります。基本的に自分の文章を誰にも読ませず、自分が思いついたことだけを書いています。
だから、雑なことが多いし、書き方のルールとかも守っていません。後から読んでも、何を書いているのかわからないことが多いんです。そういう時はいつも自分を笑い、その記事を書いたとき、心はきっと混乱していたに違いないと感じます。

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普段は決まったノートに書くのではなく、下書き用紙に書いています。どこかに捨てたりできるからです。嫌な思い出は忘れ、捨てるべきだと思います。
実際そうして、悩みが書かれた紙を捨てると、まるで嫌な記憶を忘れてしまったかのように、おそらく今後もあまり考えないだろうと感じます。

紙は木の穴のような役割を果たし、私が子供の頃から抱いている、どうでもよいささやかな悩みをいろいろと聞いてくれるのです。
時々、木の穴のような紙が涙を手で受け止めることもありました。ペン先が紙を擦る音を聞いていると、どんな悲しみも悩みも、その心地よい音で拭い去れます。

世の中には、本を出版したり、インターネットに投稿したり、人に読んでもらうために文章を書く人はたくさんいます。これらの人は自分の考えを人に伝えたり、読者に知識や人生に対する洞察を与えたりしています。
でも、私のように自分のためだけに書いている人もたくさんいるのでしょうね。自分の喜びや悲しみを、おそらくあまり豊かでない、華美でない言葉で表現し、文章を書くということを自分だけのためのRomanceにしている人達です。

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また、自分の文才が足りず、思っていることを十分に言葉にできないことに悩んだこともあります。そこで、文豪たちがどのように書いているのかを知るために、文学鑑賞の講座を受講したのです。
技法とかはよくわからないけど、彼らの小説はとてもよくできていて、ストーリーがうまくつながっていると思いました。

学期中に先生と一緒にたくさんの有名な作品を鑑賞しました。ところが、先生は小説の文法や書き方に注目し、私はストーリーの面白さに注目しました。
私は中学校・高校で上手な文章の書き方を学んだものの、堅苦しく生気のないルールを自分のために書く文章に適用することはありませんでした。なぜなら、文章は感情の流れであるべきで、それは生きているのだと思うからです。

大学入学以来、「文章」をたくさん書いてきましたが、「文章を書く」ではなく、「文章を完成させる」と呼ぶのが適当だと思います。課題のために文章を書かないといけないからです。そこからあまり「文章を書く」時の喜びを感じていません。ただ早く完成したいという気持ちだけを持っています。
「文章を完成させる」ということと「文章を書く」ということは、まるで違う二つのことです。本質的な違いは、「自分がどんな気持ちをもってそれをやるのか」だと思います。
何かを得るためにやらなければならないが、主観的に嬉しいと感じないのであれば、それは単なる仕事です。一方、文章を書くだけで大きな満足感や喜びが得られるのであれば、私にとって文章を書くことは大きな意味があると思うのです。

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余談ですが、日本に来てから文章を書く特徴に大きな変化がありました。それは主語がなく、「私」をあまり言わないということです。
最初は、よりネイティブな日本語を話すために、日本人のように主語を入れずに話していました。しかし、時間が経つにつれ、自分の意見をはっきり言わなくなってしまいました。自分の本心を言わず、極端なことを言わないといったことが知らず知らずのうちに根付いていきました。
まあ自分はまだ若いから、経験が浅くて、話していることは決して正しくないのだと思いました。しかし一方、自分が思っていることを言わないと自分らしくなれないとも思いました。

その時、悩んでいた自分を思い出しました。したがって、言い出せなかった考えと思いを書き出します。その点から私自身のための文書を書いているとも言えるでしょう。