私にとって、文章を書くことは誰かのためでもあり、自分のためでもある。書くことが好きになったのは、大学で広告のゼミに入ってからだ。

それまでは自分の書く、堅苦しい文章が嫌いだった。本当は自分では気に入っていたが、認められず苦手になった。前文の、「本当は……」といったように私の場合、文章だと本音が出しやすい。
広告のキャッチコピーは本音で書かないと誰かの心を動かすことはできないそうだ。その練習としてよく作文が課題として出ていた。そのゼミで自分の文章のスタイルを褒めてくれる恩師に出会い、自信を持って書くことができるようになると同時に書くことが好きになった。自信もついたので、書いた文章を同じゼミの友人と交換し合っていた。

◎          ◎

社会人になって2年。接客業に就いたことで誰かに見せることはなくなったが、また書く機会が増えた。
なぜなら、23歳でくも膜下出血を発症し麻痺が残り、いつも通りの日常を取り戻しつつあるときにてんかんにもなったからだ。

新入社員ながら役職をもらい、これからというときに病魔に襲われた。今現在も元のように明るく元気に働けるようにはなっていない。
そんな不甲斐なさや「なぜ私が病気に」といったモヤモヤを文章にして、自分の中で整理することが増えた。親に心配をかけまいと、誰にも話せない想いを文章にして書き溜めることが増えた。
誰かに話すことで楽になれるとよく言うが、同世代にいくら病気の話をしても、寄り添ってくれるがどこか他人事で分かり合おうとはしてくれない。友人の中の私は元気なままの印象だから余計に分かり合うことへのハードルが高くなる。
いや、分かり合うことは当事者同士以外できないと、どこかで私自身も諦めながら話すからダメなのかもしれない。だから言葉を使って話すよりも文章で本音を書いて秘めておくことが多い。

◎          ◎

モヤモヤの整理のほかに、もう一つ私が文章を書く理由がある。それは、文章を書いているときだけは私が主役になれるからだ。私の文章は私が体験してきたことしか書けない。つまり私の文章は私にしか書けないのだ。

当たり前のことだが、これが私にとっては自分の人生の主役であることを再確認させてくれる。私は人生の主役になりたいと常に思っている。
若くして病気になると、人生の大通りから逸れた脇道を歩んでいる気分になる。だからこそ、文章を書くことで自分が主役だと認識し、アウトプットして深呼吸したいのだ。

◎          ◎

今の時代、SNSなどで、同じような体験をした人を探し、傷をなめあえばいいのかもしれないが、病気をしてから自信もなにもかもなくした被害者気分の私は、小心者でそこまでの行動力はない。
実際、私が病気になった時、同じような体験をした人がいないかネット上で調べ続けた。けれどヒットしなかったから誰かのために、病気になった当時の私のために文章を書いて投稿してみる。

私が文章を書くことで、選ばれれば、同じような体験をした人の気持ちを軽くできるかもしれない。そう思って私は文章を書く。そしてこうやって私のことを知らない誰かにアウトプットすることで私も救われるのだ。