文章を書いている時、私の心は穏やかになっていると思う。
勉強をしている時、本を読んでいる時、料理をしている時、何かしら音が流れていないと、私はそわそわしてしまう。
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大家族の中で育った私は、小さい頃から音に包まれていた。誰かと一緒に過ごす静かな時間は好きだったが、一人で過ごす静かな時間は苦手だった。
だから、何かをやり始めるときにはとりあえず音楽を流す。作業用BGMも流すし、好きなアーティストの曲も流すし、ニュースを流しておくこともある。そして、「集中できんわ!」と思ったタイミングでその音を止める。そうすると、自分がやっていることにすごく集中できる。
でも、文章を書くときは違う。音がほしいと思わない。それがどうしてなのか、私は自分なりに分かっているつもりだ。
自分が考えていることを文字に書き起こそうとしているから。そこに音があると、自分の素直な思いや意見が、誰かが作った音に持っていかれるように感じるのかもしれない。
不特定多数の誰かに届いている音は、私が自分に向き合うことを妨げてくる。等身大の私よりも素敵な私でありたいと思ってしまうのだ。
きっと、私にとって文章を書くこととは、不特定多数の人に届けるためではない。いつも自分のためだった。
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私はネガティブな性格で、特にこれといった趣味もなく、人に流されてきた。自分の人間性を変えたいと、漠然と思っていた。
これは譲らないという意思を持った利己的な友人が羨ましくて、その子から「そんな風に他人のことばかり考えてられないよ!」と言われたときに、自分の言動に自信が持てなくなった。自分のことを第一に、大事にできる人になりたいと思った。こんな私の思いを、「文章を書く」ことが救ってくれた。
学生団体の活動の中で、自分の価値観が詰まりに詰まった過去の経験を書く機会があった。
価値観がぎっしり詰まっていたのは、読んだ人に伝わるように、相手に、「どうしてこう思ったんだろう」「こう思うきっかけになった出来事は何だったんだろう」というような疑問を持たせずに、しっかり伝わるようにするためだった。
活動の一環で書かなければいけないものだと思って始めたそれは、結果的に私のためになった。たくさん思い出せることや気づけることがあった。
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私は誰かのことを考えることが好きだし、そうすることで喜んでもらえることが何より嬉しかった。
小さい頃からそうだった。家族の手伝いをすることも、誕生日に手紙を書くことも、プレゼントを用意することも、人の相談に乗ることも、小さい頃から大好きだった。
人のことを思っているからといって、それが自分を大切にできていないことにはならない。私の場合は、そうすることで私自身を大切にできる。
成長していくにつれて、関わる人の数は増え、いろいろな人と出会うことになる。しかし、いろいろなことを知っていく中で、自分のことを見て、考えてあげる時間を、私は作れていなかった。
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文章を書くことは、私がどんな人間なのかを教え、思い出させてくれた。
宿題で作文を書く時も、入試やアルバイトで志望理由を書く時も、大切な人たちに手紙を書く時も、私が自分の時間を使って書いてきた文章は、自分の学びや思い出、普段何気なく考えていることを、頭の中だけで考えているよりもずっと鮮明に映し出してきてくれた。
書いている私にしか分からないが、飾らない自分を鮮明に描き出せる時間は、私の気持ちを穏やかにしてくれる。学生団体の活動で書いた文章を読んでくれた友人は、「優しい気持ちになる」と言ってくれた。友人が言ってくれたその言葉は、文章に向けられているのに、これまでの私自身のことを言ってくれているようで嬉しかった。