100万円は子どもの頃にはとんでもない金額で、なんでもできる夢のような存在だった。しかし、大人になった今、その金額は年収の何割かの、生涯で見ないことはない現実的な金額であることを理解してしまった。
なんでもできるなんてことはなく、普段は手に出来ないような贅沢をすればすぐになくなってしまう。そう理解している大人の今だからこそ、もし自由にできるそのお金があるならやってみたいことがある。
それは自分の文章を『紙書籍』として残すことだ。

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以前働いていた会社で「まりかなさんは将来どうなりたいの?」と聞かれたことがある。
社会人になるまでは立派な大人になるとか、いい会社に入って親孝行をするとか大それたことを言っていたが、いざ社会人になってみるとそれが如何に難しい話であったかを思い知らざるを得なかった。

それでも社会での夢を聞かれた時、不意に自分の口から出たのが「本を書きたい」という言葉だった。昔から本は好きであったし、国語は比較的得意な教科ではあった。
しかし長文を書くことに長けていたわけでも、芸術的な表現が冴えているわけでもない。ごく平凡な私であることは理解しているから、その時の受け流しと言えど、その言葉が出たことに自分自身驚いた。

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学生の頃、小説の世界でいろんな仕事や人の生き方を見ることが面白かった。その時はシンプルな娯楽として読むことが楽しかったし、学校の図書室の貸出率上位にランクインするくらいにはさまざまな作品を読み漁っていた。
しかし大人になり、さまざまなコンテンツが発達した今、書籍を手に取ることが少なくなった。

その理由は2つ。シンプルに時間を使い、荷物になる書籍というコンテンツから疎遠になったのと、作品の背景にある作者の思考を理解して噛み砕くのに時間を要するようになったからだ。
前者についてはきっと世の中の本離れと同じであろう。書籍というコンテンツは視界と手を拘束する。私のような人間は音が入ると情報が頭に入ってこないので、音楽や動画と並行して見ることが出来ない。音楽やドラマを2倍速で聴くような時代。一言で言えばコスパが悪いのだ。

しかし、日本語で紡がれる言葉の美しさは私自身もよく知っている。
夜が迫る夕方の青と橙が混ざる景色や冬の駅のホームで感じる刺さるような風の冷たさ。SNSで伝えるには少しクサイと思うような日本語で世界の美しさを表現したいし、それは紙を手に感じながら、学校や家の「ここで読んだな」という記憶と共に思い出してほしいと思う。

次に後者。決して書籍に限られたことではないが、作品には作者の想いが込められている。自分の思考はもちろん、時には世間や現代への批評や風刺があるなんてこともある。なぜ今そのテーマを選んだのか、なぜこの言葉を選んで届けようと思ったのか。学生時代の読書感想文では理解も表現もできなかった景色が今だから多く見えてくる。

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そして経験が増えた今。今度は自分がそれを誰かに伝えてみたいとどうやら潜在的に思っていたらしい。私の経験も決して綺麗なものばかりではない。葛藤や苦悩も現代の平凡な人間が抱えたものとして、誰かのもとに残ったらいいなと思う。それが私なりの存在価値につながるような気がしている。

電子書籍があったり、SNSなどのコミュニケーションツールが溢れた今。毎日投稿できるコンテンツで発信することもできるし、もっと手にとってもらえる媒体を選ぶこともできる。インフルエンサーが趣味や自身についてのエッセイを出版しているなんてことも少なくはないし、発信も作品として残すことも昔より簡単にできる時代だ。
だからこそ、手軽にではなく、しっかり悩んで作り抜いた作品を人生でたった一つでもいいから残していきたい。

もし私に100万円があるのなら。自己出版といった自己満足に使うことを許してくれないだろうか。