文章を書くということ。真っ先に思い浮かんだのは、母とのコミュニケーションかもしれない。
別に、交換日記などをやっているわけではない。ただ、私が書いた文章を添削してもらっているだけである。それでも、母の添削してもらった文章を見て、もともと私が書いた文章よりも綺麗に整理された文章が返ってくる。そんな母を尊敬している。

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小学生のときの読書感想文を添削してもらうのは恥ずかしくてできなかった。なぜなら、読書感想文を書くことが苦手だったからだ。
あらすじを書きすぎてもダメ、その本の中で考えたことを最後に書かなければならない、そんな制約ばかりの文章を、強制的に年に1回書かされ、長い文章を書くことが嫌になっていた。

しかし、そんな私もどうしても文章を書かなければいけない時がきた。小学校6年生の冬、中学校の入学式で新入生代表として挨拶をしなければいけなくなったのだ。おそらくその時が、初めて母に添削してもらったような気がする。
当時の私は、そんな大役をやったこともなければ、そんな文章を書いたこともない。必死にインターネットで検索して、見よう見まねで文章を書いていた。
やっと書き終えた後に頼ったのは母だった。

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母は、読書が好きで、国語が得意だったらしい。母とクイズ番組などを見ていても、「他の知識はもう負けるけど、国語だけは負けないわよ」とお茶目に伝えてくる母だ。だから私は、まずは母を頼った。
そんな母は、添削するよりも前に書き終えたことを褒めてくれた。正直、どんな添削をしてもらったのかなんて覚えていないが、母に褒められて嬉しかった記憶だけは残っている。
文章を書くことに対しての苦手意識はなくなったわけではない。しかし、どんな文章を書いても、母が添削してくれるという安心感が生まれた。

それから先は、大事な文章でも、そうでなくても、いつも母が見守ってくれた。
中学生のとき、生徒会に立候補した私が全校生徒の前で挨拶するための文章。高校生のとき、大学受験のために大学に送るための文章。大学1年生、初めてキリスト教のレポートでエッセイを書いて提出するときの文章。先月も初めて企業に送るメールの相談をした。
こうやってまとめてみると、随分と母に愛されて育っているなと実感する。

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幼いころは思っていなかったが、添削は頭の中を回転させて文章を整頓させる、意外と時間がかかる作業だ。働いて、家事もして、私たちの世話もしている母にとって、非常に面倒くさいだろう。しかし、それを嫌な顔せず、娘の晴れ舞台のため、娘の受験のためなど大きな舞台から、娘の学校のためのような日常の生活まで、時間と労力を割いてくれた。

もちろん、別のことでも母からの愛を十分に感じているが、私にとって、「文章を書くということ」は、母とのコミュニケーションであり、母を尊敬する一面であり、母からの愛を感じる行為なのだ。この文章を添削してもらうのは、きっと気恥ずかしくてできない。けれども、いつか添削してもらえたら嬉しい。