エッセイなんて書いておいて「え?」と驚かれるかもしれないが、私は正直文章を書くのが苦手である。
だが、嫌いではない。そしておそらく存在意義になっている。

お祭り騒ぎする若者を見た夫の一言は、私を少しだけ切なくさせた(えどはま様:記事中リンクで入稿お願いします)

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今思えば私が文章……もとい文字で表現する世界で片足を突っ込み始めたのは、小学一年生の頃である。
詩を書くという授業があったのだ。
今でこそ詩なんて、ポエムなんて、こっ恥ずかしくて照れちまうが、7歳なんて怖いものなしである。

同級生が「詩なんてどう書いたらいいかわからない」と頭を捻らず傍らで、私はどんなものを書けばいいのか思案した。そして大人に好かれるものがいいのでは?と結論をだした。

私は子供の頃から、どうすれば相手に喜んでもらえるか?嫌われないか?波風を立てないか?と、人、特に大人の顔色を伺ってばかりして生きてきたので、子供ながらにして「大人が喜ぶような子供らしく振る舞わねば」と使命感めいたものを覚えていた。
さながら「人間失格」の大庭葉蔵である。

そんな一見すると子供らしい子供だが内面は少し不気味な私は、得意顔で子供らしいと大人が思ってくれる詩……今でもぼんやりと覚えている、花を人に見立てて「お花さん、お花さん」と問いかける可愛らしい内容の詩で原稿用紙のマスを埋めた。
その結果、その詩が多くの大人から褒められ、校内の壁新聞かなにかに掲載されたのである。
ほとんど褒められたことがなかった私は、原稿用紙に文字を埋めることで初めて人から褒められた、そのことから「書く」ということは私にとってかけがえのないものとなった……いや、なってしまった。

それから私の小学生時代は、作文のコンクールへの応募に情熱を注いでいた。
全校集会では校長先生によく表彰されるので、全校生徒が「あ、作文の人」「表彰される人」なんて認知されるほどであった。

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年齢を重ねるにつれて作文コンクールよりは、中2病かぶれの頃は友達同士でオリジナルのキャラクターを作ってみたり、そのキャラクターが主人公の物語を書いたりして文章を書くことが好きになり、「小説家になりたい」などと大きすぎる夢を抱えて、小説のコンテストに応募するようにもなった。無論文章のプロの門は狭く、一次選考も通らなかったが。

就職をしてからは文章の世界から少し離れてしまったが、生きていく中で自分が人と違うと感じた生きづらさを発信するツールとして「エッセイ」に手を伸ばし、そして今は2冊の本を出させて貰い、こうしてかがみよかがみさんにも掲載して頂くまでになった。

だが、私が書くのは決して「天性の才能」からではないだろう。
「天性の才能」があるのは小説家の角田光代さんだとか宮部みゆきさんだとか。そういう純粋に言葉を紡いで文章を綴る人。文章を書くことが好きな人だと思う。そういう人が文章を生業に出来るのだろう。

私はというと、文章を書くことが好きかどうか?というとイエスと即答が出来ない。
誰かに媚びたり、褒められる為という歪んだきっかけで「書く」ことをはじめてしまったからかもしれない。
でも嫌いではない。

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「天性の才能」がない私は、「文章」を書くことがとても苦しいなと、エッセイストになってから思う。

芥川龍之介の友人の菊池寛は、晩年の芥川の文章……当時はもちろんパソコンの文字ではなく肉筆の原稿を見て「まるで原稿用紙に生命を吸い取られているようだ」と言ったという。つまり菊池寛が知る学生時代の芥川の原稿は力のある文字だったが、自死を選ぶ直前の文字はとても弱々しくなっており、そのことを「原稿用紙に生命を吸い取られてるよう」と表現したのだ。

私はこのことを文献かなにかで知り、驚きつつも僅かに納得した。
文章を書くことはとてもエネルギーを使う。原稿用紙に万年筆をもって向かうことは文系な行為だが、フルマラソンのように力を使う、そして生命さえも削る。

私はこのエピソードが好きで未だにエッセイは原稿用紙に手書き、そして私自身も文学館にいって文豪の手書きの、目には見えぬとも生命をインクにして綴られた原稿を見るのが好きである。

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この所、文章を書く度に思う。
私はいつまで文章を書き続けられるのだろう。
いや、書き続けるのは、きっと気力さえあればいつまでもできるかもしれない……そうではなく読んで貰えるものが書き続けられるのだろうだろうか?と。

「天性の才能」がない私は、きっともしかしたらエッセイストでいられる時間はそう長くもないかもしれないし、それは杞憂に終わるかもしれない。
「天性の才能」がある人を羨ましく思うこともあるが、羨んでも仕方がない。

「天性」というものはこの世界に生まれ落ちてから望んでも与えられない、それは文才のみならずスポーツの世界でも同じだ。望んでも手にすることが出来ない。
「天性の才能」のない私はエッセイストとして細く長くとはいかないかもしれない、でもならばせめて太く短くあればいい。

1作だけこの世に送り出してまばゆいばかりに煌めいて、今はその後を知らぬ作家は数多くいる。そんな人を一発屋のように嘲笑うものもいるかもしれないが、1作とはいえ煌めけることは素晴らしい。

私は文章を書くのが苦手だ、けれども文章を書いている。いつか終わりが来るその日まで。