マイナスな感情が心の中に立ち現れた時にどうやってそれに対処するかは、人それぞれ方法が違うと思う。運動で汗をかく人もいれば、熱唱して発散する人もいるだろう。私にとっては、「書くこと」がそれに値する。
悩みや葛藤を抱えると、思考を巡らせるのに使った言葉たちですぐに頭がいっぱいになる。なんとか自身を納得させるため、脳みその中から様々な言葉がとめどなく湧き上がってきて、もう他のことを考える余地も与えないくらいに膨れ上がる。だから、それを外に出してやる必要があるのだ。
芸術家は苦悩を糧に傑作を生み出すことを「昇華」と言ったりするけれど、私はあくまで素人なので、そんなカッコイイものではない。
私にとって、書くことは「排泄」である。
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中学2年生くらいの頃、ニコニコ動画が流行りだした。歌い手や踊り手、動画職人など、目を見張るような才能を持った一般人を目の当たりにして、感動と同時に酷く嫉妬したのを覚えている。
いや、まるで過去の話のような書き方をしたが、今でもそういう感情がないとも言いきれない。何者でもない私は、YouTubeやSNSでのし上がった所謂インフルエンサー的な存在を嘲ってみたりするけれど、結局それだって、アラサー女によるただのルサンチマンにすぎない。
3歳から小学生の途中までずっとピアノを習っていたが、病気により右手が使いづらくなって、それ以降はほとんど触らなくなってしまった。
自己表現をする手段は人によって、絵を描いたり、歌ったり、演奏したり、踊ったり、いろんな形がある。ピアノは楽しかったけれど、上手く指が使えなくなって嫌になった。
これは言い訳でもあるのだが、人生で一番初めに身につけたもので表現することができなくなった。運動にしても、苦手意識があり(いかんせん右利きのくせに右側に麻痺があるので)、あまり好きではなかった。
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ただ、本は好きだった。国語の問題に出てきて内容が気に入った作品は、小説でも新書でも随筆でもジャンルを問わず、全文を読んでみたくて、後日自分で買ったりした。チラシとか、商品パッケージの裏とか、ちょっとしたコラムとか、そういう細かい文字を読むのも好きだった。テレビのテロップや、個人ブログのような校正されていない文章の、論旨とは関係ない誤字や誤用にも、いつの間にか敏感になっていた。
読むことが好きだった私が書くことを始めるようになったのは、極めて自然なことだったように思う。
口下手な子どもではあったものの、書くことは他の同級生よりも好きだという自負があったので、小学校では「新聞係」「図書委員」で、日常の出来事を記事にしたり、原稿を書いて校内放送で本の紹介をしたりした。中学校と高校では、毎年発行される生徒会の冊子の編集で、いかに面白おかしくするかに全力を注いだ。大学に入ると、サークル活動では自分の出演するラジオの台本を用意したり、新聞社でアルバイトとインターンを経験したりした。書いたものを見てもらえることは、どんな場面でも嬉しかった。
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そういったこともあり、私は新聞社の記者職を志すようになった。新卒の就職活動のために、作文の練習(※新聞社の入社一次試験では必ずと言っていいほど90~120分ほどの時間制限付きで即興作文2000字程度が課される)を繰り返した。
模範作文と睨めっこをしたり、新聞記者という同じ志を持つライバルと作文を論評し合ったりすることで、自分で何度も読み返し完璧だと思ったものでさえ、赤がつくという現実に初めて直面した。
それまでは、好きな文章を好きなように書いていれば、なんとなく評価されていた。書けること自体を評価されるフィールドと、上手く書けて初めて評価されるフィールドの間に、大きな壁があることを知った。
何かを本当に極めようとするとき、元々それなりに得意だったとしても、あるレベルからは楽しくやっているだけでは進めなくなる。例えば、音楽であればメトロノームに合わせて正確なリズムで奏でるような、スポーツであればひたすら基礎体力をつけるような、地道な訓練で磨きをかけなければ、さらなる高みは目指せない。
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一次選考を通過してもやはりマスコミは狭き門で、結局新聞記者という夢は叶わなかった。それでもこの闘いに参加できたことがいい経験になった。
10代の前半、ニコニコ動画で己の身の丈を知らされ、そこから数年かけて、自分なりの表現手段は文章であることに気づいた。ただ、それもこうして結局所詮プロ未満だということを突きつけられてしまったため、一丁前に文章が自己表現手段だなんて、もう堂々とは言えない。しかし、こうやって今書いていることで、新卒の就職活動で夢破れたときのコンプレックスが少しは低減されて、スッキリした気もしている。
そういうわけで、私にとって文章を書くということがどのような意味を持つかといえば、自己表現というよりやはり「排泄」に近い。もはや生理現象なので、これからも何かが起こるにつけ、不格好な文章でも私は「書く」と思う。
まぁ、排泄物を見てもらって嬉しいというのも、なんだか奇妙ではあるけれど……。