小学生の頃、夏休みの読書感想文の宿題がものすごく苦痛だった。
何を書いたらいいか分からずに半泣きになって、ほぼ丸ごと母に内容を考えてもらった。しかもそれが賞を取ってしまい、授賞式でどういう顔をしたらいいか分からなかったことがある。

国語の授業で短歌を書いてみよう、となったとき、小恥ずかしくて詩的な表現なんてとてもじゃないけどできず、投げやりに書いて提出した。
壁に張り出された私の作品を、授業参観で教室に来た母に見られて「どうしてみんなみたいに上手に書けないの?」と言われたこともあった。

私は自分の想いを文章にすることが、とてもとても苦手だった。

元を辿れば、自分の気持ちに向き合うことに抵抗があったのだと思う。
当時、なぜだか分からないけれど、心の中の情緒的な部分を見つめて表現することは、まるで弱い自分をさらけ出すような気持ちのように感じられた。

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そんな私は、大人になった今、自分の気持ちを言葉にすることがとても好きだ。
仕事で文章を書くこともあり、人から褒めてもらえたりすることもある。

どうしてこんなにも真逆になってしまったのか。
きっかけとなった出会いは、中学生の頃まで遡る。

私は14歳の頃、とあるアーティストのファンになった。
とりわけそのアーティストが書く歌詞が好きだった。
その頃の私は、歌詞をはじめとして、ブログやインタビューなどから隅々まで、その人の言葉を探した。そしてその一言一言に、「らしさ」を感じて、もっともっとその頭の中の世界を知りたくなった。

そしてとうとう、私はそのアーティストに感想を送りたくなったのだ。
そのとき、心の中の情緒的な部分を見つめることは、もう恥ずかしいことでも苦痛なことでもなくなっていた。

それ以降、私はそのアーティストに限らず、積極的に想いを伝える人間になった。
好きな作家、画家、お気に入りの商品を作った企業など……素敵な気持ちにしてもらった相手へ、その素敵とたくさん向き合った私の言葉をファンレターとして送ることは、わりとよくあることとなっている。

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素敵を言葉にすることは、さらに素敵を呼びよせる。
自分がなにをいいなと感じて、どういう気持ちになったのかが、より深く分かる。
あとで読み返してみれば、忘れていたそのときの新鮮な感情が蘇る。
少し勇気を出してネットの海に放り投げると、共感してくれる人が現れることもある。
そして、運がよければ、それを伝えた相手に喜んでもらえる。

書くことを克服できたことで、私の人生の楽しみは様々な方向に広がった。
自分というものが、書けなかったときよりはずいぶんと理解できるようになったし、これからも書きながら、『私』を理解していくんだろうなと思う。

ただ、未だに素直に言葉にできないことが私にはある。
それは、家族への感謝の気持ちだ。

ささいな「ありがとう」でさえ、言葉にしようとすると、小学生の頃の『恥ずかしいと思ってしまう自分』が顔を出して邪魔をする。
今、こうして文字を書いていると、恥ずかしいと思っていることが恥ずかしい気がしてきた。

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それでも、こんなふうにつらつらと書いていくことで、もうすこし自分に素直になる練習を積んで、伝えてみようと思う。
感謝の気持ちというと、「花嫁の手紙」なんかをイメージしてしまうけれど、そんな立派なものでなくてもいい。私らしくできたらそれでいい。
こんなに真逆の私になれたのだから、きっとできるはず。

そのときは、「あのころ、読書感想文手伝ってくれてありがとう」と、当時の思い出を笑い話に変えて伝えてみようと思う。

きっと、私の成長を感じてくれることは間違いないはずだ。