私は性産業に従事している。セクシー女優でも風俗嬢でもないが、彼女らと一緒に働き、この業界で芸能活動を行っている。
この業界に入って驚いたことは、私たちはよく、被害者や犠牲者として扱われ、意図的に”可哀想”な存在にされることだ。

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私たちがよく言われることは、「早く辞めれるといいね」「自分を大事にしなよ」「なんでこんなとこで働いてるの?」。これらの言葉が日常的で、1年経った頃には疑問も抱かなくなった。しかし、これらは普通のことなのだろうか。
コンビニの店員さんに、学校の先生に、これらを投げかけることはないと思う。だが、これらを発する人の多くは普通のことのように発していた。

実際に性産業で働く私たちの多くは夢があり、私が知った人の多くが憧れを持ってこの世界に入っていた。しかし世間の一部の人からは私たちの意思は考慮されず、”可哀想な子”にされてしまう。
私は“可哀想な子”ではないのだと訴えたいし、私の存在を勝手な解釈で定義されたくない。現状や想い、そして私たちのリアルな存在を知ってもらい、社会の中での意思のある一員としてなかったことにされないように、文章を書くことに意味があると思う。

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私はある少々特殊なイベントにオファーがあり、簡単な緊縛ショーに出演した。
緊縛の世界は特殊で、人気がある。しかしフェチシズムの世界は理解されないことも多い。
イベント当日、「緊縛はちょっと……ねぇ」という館長の一言で中止の危機に陥った。私は館長の言葉に、私自身とそのコミュニティが否定された気がした。

私にとって緊縛は、フェチシズムへの入り口になるほどにはメジャーで、誰が縛られても、美しく、緊縛師とのコミュニケーションはさながら、流派や伝統が守られた世界で蓄積された芸能だ。
結果的にはショーは短縮で実行されたが、趣味嗜好が受け入れられるはずの場での発言は”一般”から突き放された感覚だった。誰かの居場所になるかもしれない世界の存在を知らせ、維持することが文章を書くことの理由になると思った。

同様の世界でさらにディープな世界の話がある。知人の紹介で行った、会員制のフェティッシュバーやハプニングバーの話だ。
これらはその世界を求める人が、横の繋がりや居心地、存在を求めて集まる。個人の詮索がなく、名前も仕事も年齢も時には性別さえも、何も知らない人同士が集まり、共通のフェチシズムや心地よさでバーに通う。

そこにいる人は様々で、女装している男性のような人(性別不詳)、フェティッシュバーを経営する愉快な老夫婦……ここに来る人の多くは、外の社会の中で生き辛さを感じた人がほとんどで、ここではすべてを包み込む暖かさがあり、家族にも恋人にも言えないことさえ打ち明けられる雰囲気を感じた。

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しかし、“浄化”という言葉で、このような場は減らされている。
その場を望む人が、小さいコミュニティの中で自分を解き放ち、またそれを望まない人には迷惑をかけていないと思う。そのような場が減らされていることに対し、呼吸が止められるような感覚を抱いた。
理解して欲しいとは言わないが、ほっといて欲しいと思う。浄化という名の元に、居場所と私たちの存在をなかったことにしないで欲しい。

これらのことを通して、文章を書くことは、存在を示すことであると思う。
居なかったことに、無かったことにされないために文章を書く。その結果、社会から消されそうなものでも社会で存在を残し、時に必要とする誰かに届き、後世に残る誰かの居場所を維持することが出来ると思っている。