「あれ、みぞれになってる?」
扉の窓越しに、きんと冷えているであろう外の世界が映る。
すぐ目の前を歩く彼はというと、大事な物をスルーしてそのままノブに手をかけ扉を開け放った。暖かい店内との気温差に、思わず鳥肌が立つ。ぶるりと震えながら、「ちょっと、傘忘れてる」とすぐ傍にあった傘立てから黒い柄を掴む。「ああ」と相変わらずの飄々とした口ぶりで、彼がそれを受け取る。

◎          ◎

「みぞれだよね、これ」
もう一度つぶやいた私に、「来るときは雪だったんだっけ?」と彼が問いかけてきた。えぇ、嘘でしょ…と思わず呆れそうになる。駅で待ち合わせて、雪がちらつく中一緒にこの店まで歩いてきたではないか。「焼肉行こうよ」と誘ってきた側であるにもかかわらず、「店の場所が分かんないんだよね」と何故か私に道案内を丸投げして。とはいえ彼のマイペースさにはすっかり慣れっこだったから、「しょうがないな」とぶうぶう言いながら私は地図アプリを開いた。

「あ、ばいばーい」
彼の声で我に返る。目の前を1台の車が通り過ぎ、さっきまで一緒にいた2人が中から手を降っていた。この2人も今回の焼肉会のメンバーで、私たちとは違って車で来ていた。会がお開きになった後、駐車場が店からは少し離れた場所にあるからと、私たちよりも一足先に店をあとにしていた。

「じゃあ、私たちも帰ろっか」
うん、と頷いた彼の声のトーンも、心なしか店の中にいたときより温度が低く感じた。車道と歩道が分かれておらず、なおかつお互い傘を差していたから並んで歩くのは難しかった。斜め後ろからでは、彼の表情を読み取ることはできない。

◎          ◎

「大丈夫?」
道が少し開けてきたところで、横から問いかけてみる。「大丈夫だよ」と彼は何でもないように言ったけれど、言葉を言葉のまま飲み込むには寂しすぎる表情を浮かべていた。明らかに大丈夫ではないと思った。

「二次会行くか!」
駅舎が視界に映り込んできた途端、急に明るい声音で提案してきた彼。驚いたけれど、内心は嬉しかった。このまま別れるのは嫌だと思った。こうやってプライベートで彼と会うのはこの日が初めてのことで、食事の場では他にも知人がいたとはいえ、私はたまらなく嬉しかった。
それに、ここから先はふたりきりだ。

ただ、駅周辺を歩いたりスマホで検索したりするも、どの店もすでに閉店しているようだった。この頃は、コロナの影響で時短営業している飲食店がほとんどだった。

◎          ◎

諦めて、駅の構内へ入る。私の自宅はこの駅の近所だったけれど、彼はここから電車に揺られて家へ帰る。改札近くのベンチに並んで腰掛けて、私たちはぽつぽつと言葉を交わした。

「どうしようかなあ」

話題はもっぱら、彼の転勤話についてだった。焼肉会の場では「急な話だったからマジで驚いたよ!」と努めて明るく振る舞っていた彼だったけれど、実際は相当揺れているのが窺えた。社内的にまだ確定はしておらず、選択は彼に委ねられているようだった。

いくら親しい間柄とはいえ、仕事のことに関しては外野からとやかく言えるものではない。もし彼が転勤を承諾したら、遠方へ引っ越すことになるだろう。それも分かっていたけれど、個人的な寂しさだけで「行かないで」なんて子どもみたいなことを口にするわけにはいかなかった。

◎          ◎

「君が納得するようにしたらいいよ」

私には、それしか言えなかった。
しばらくして、「帰るね」と彼がおもむろに腰を上げた。何故だろう、あまりこちらを見てくれない。俯きがちな彼がたまらなく心配だったけれど、私も慌てて「改札まで送る」と立ち上がった。

「いい、ここでいい。そうじゃないと、帰れなくなるから」
どうしてそんな顔をするの、と喉元までせり上がってきた言葉を、ぎりぎりで飲み込む。その手を強引にでも掴んだほうがいいのか、でもそれは行き過ぎた行為なのか、悩みに悩んだ挙げ句、私は「わかった、じゃあまたね」とその場で手を振った。

改札の向こうへ、静かに消えていく背中を見つめる。「これでよかったのだろうか」「子どもみたいなことを言った方がよかったのだろうか」そんな後悔に襲われながら。

◎          ◎

「あのときね、ちょっと泣いてたんだよね。でもバレたくなかったんだよね」
そう夫が打ち明けてくれたのは、割とここ最近の話。「あのとき」とは、改札近くのベンチで別れた、みぞれが降るあの夜のことだ。

「じゃあ、あのときはもう、私のこと好きだったってこと?」
「さぁ」
しらばっくれる彼は、相変わらず飄々としている。ちなみに私は、あの夜の時点ではもうすでに君のことが好きだったよ。