文章。文章とは、話し手または書き手の思考や感情がほぼ表現し尽くされている、いわゆるまとまりの統一ある言語表現で、一つもしくは複数の文から成るものである。

なぜ文章が生まれたのであろうか。単語だけではダメだったのであろうか。おそらくその単語だけでは相手に伝えたいことを全て伝えることができなかったからだと私は考える。相手に自分の伝えたいことをより伝えるために文章が生まれたのであろう。

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突然だが私は、文章を書くことが嫌いだ。学生時代、作文を書かされることが多々あった。小学校低学年の頃は、文章を書くことが好きだったが、成長するにつれて嫌いになってしまったように感じる。

その原因のひとつとしては夏休みの宿題として年に1度書かされた「税の作文」だ。それは、税について考え、 調べたことや考えたことを、相手に伝わる文章にする力を鍛えるために出された宿題としての意味を持っていたようだが、当時の私にはとてもではないが理解できなかった。

ではなぜ文章を書くことが好きだった私は、文章を書くことを嫌いになってしまったのだろうか。
それは書きたくない文章を強制されたからだと考える。もともと文章を書く理由は、自分の思いを相手に文字の力で伝えたいからだと思う。

それに対し、書きたくないのに書かされた税の作文は、自分の書きたいと思う意思がないのにもかかわらず、書かされたのだから問題であったのだと思う。その、自分の書きたくないのに書かされた回数が増えたことで文章を書くのが嫌いになったのだと思う。

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先ほども書いたが、私は昔、文章を書くことが好きだった。このあいだ、部屋を整理していたら、自分が小学1年生の頃の「くじらぐも」について書いた感想と先生からのコメントが書かれた冊子が出てきた。

国語の授業で行われていた今でも覚えている「くじらぐも」。「くじらぐも」とは、1年2組の体育の時間に白い大きなくじらぐもが現れ、1年2組の子友達と先生を乗せて空を飛ぶという話だ。
母に「くじらぐも」について書かれた冊子について聞いてみると、私が小学1年生の頃の三者面談で、当時の担任の先生からたくさん「くじらぐも」について感想や意見を書いていると、冊子を渡されながら褒められたそうだ。私も当時、文章を書けば書くほど褒められたことを今も覚えている。

また私は夏休みの宿題と称して、自主的に小学校6年間の夏休みに日記をつけていた。それは今でも自分の部屋に保管してある。読み返すと、当時自分が書きたいと思って楽しんで書いていた様子が今読んでも伝わる。
また、担任の先生によっては、私が書いた日記1日1日にコメントを書いてくださっていた。きっと当時の自分は、その先生からのコメント欲しさに日記を書いていた可能性もあっただろうと思う。

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自分の思い出が文章を通して、先生に伝わったのがよほど嬉しかったのだろう。そうでないと、とてもではないが6年間もかかさずに書き続けることはできなかっただろう。また、その日記を読み返すと、年齢を重ねるにつれて使える漢字が増えたり、語彙力が高くなっていた。
自分の思いをより詳しく相手に伝えるためには、どの漢字や語彙を使ったらよいかを考えた結果であり、文章を書くことで成長している様がわかった。自分が書きたいと思って書いているからこそ、楽しんで書くことができ、文章が生き生きしていた。

これからも、自分が相手に伝えたい思いや自分が書きたい文章はどんどん書いていきたいと思う。また反対に、自分が書きたくない文章は書かないようにしようと思う。
書きたくない文章を書くことによって、文章を書くことがドンドンと嫌いになってしまう。ただでさえ、文章を書くことが嫌いになってしまっているので、もうこれ以上は文章を嫌いになることがないよう、文章と上手く付き合っていきたい。