丁寧に説明しようとすると何だか回りくどいから「私は文章を書くことが好き」とつい言いがちだが、内心は「ちょっと違うんだよな」と首をひねっている。確かに、嫌いではない。でも「好き!たまらなく好き!」とポジティブな感情だけが沸き起こるものでもない。

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そういえば、と不意に思い出し、私は長らく放置していた鍵つきのTwitterアカウントを開いた。誰にも見せたことのない、フォロワーもいない、ありのままの感情を掃き溜めたような場所だ。ただ、更新はもうしばらく前からしていなかった。存在すら忘れかけていた。

ひたすら画面をスクロールし、時を遡ること3年前。2020年8月某日の、とある投稿。

“「文章を書く=趣味」っていうのがいまいちしっくり来なかった。
今ふと気付いたのは、おしっことかうんちをする感覚に近いということ。”

“自分にとっては汚さを感じるもの。でも必要なもの。趣味のように好き好んで行うというより本当に何かを排出するような作業。トイレと違うのは、毎日する必要はない点。でもしたくなったらむずむずするのはトイレと一緒。”

人には言えない話だから鍵アカの中に閉じ込めていたのに、ここでこんな風にさらけ出しちゃったら本末転倒なのかもしれない。でも、私にとってはこれが限りなく真理に近い。

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3年前、なぜこんな独り言をツイートしたのか、その理由は覚えている。
当時の私は無職で、お医者さんからは抑うつの症状が出ていることを指摘されたばかりだった。基本的に何に対しても気力が起きなかったものの、それでも何とか日々を踏ん張ろうともがいた。そんな私にとっての数少ないwant toが「昔から唯一続けてきている『書くこと』に今は時間を割いてみたい」だった。『書くこと』にすがりたい、が正しい表現かもしれない。これしか私を救ってくれるものはない、そんな気がした。

……といったことを、信頼できる知人にぽつぽつと話してみた。
私の曖昧な話し方も悪かったのかもしれないが、あまり想像していなかった反応がその人からは返ってきた。

好きなのか、嫌いなのか。
仕事にしたいのか、趣味でいいのか。
あるいは両方を求めているのか。
具体的に何をどうしたいのか。

矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、思わず耳を塞ぎたくなったのを覚えている。
その人は、間違ったことを言っているわけではなかった。むしろどれも正しかったと思う。散らばった私の思考を、すっきりと整理しようとしてくれていたのだろう。

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今なら冷静にそう振り返ることができるけれど、当時はただただ傷ついた気持ちになった。結局、投げられた正論に対する言葉の返し方がわからなかった私は、言葉にできない想いを小さな世界の中にひっそりと吐いた。

あれから時間が経った今も、考え方はあまり変わっていない。
好き嫌い云々ではなく、気づいたら手を伸ばしてしまうもの。自分の中に溜まった想いを一番綺麗に排出できる手段。けれどときには「何で私はこんなことを書いているんだろう」あるいは「何で上手く書けないんだろう」と途方に暮れることもある。そんなときは、ひどく、苦しい。狭いトイレの個室でうんうんうなるように。でも、うなった結果ふとした瞬間にすっと解放されたときは、たまらなく気持ちがすっきりする。ああ、やっぱり私にとっては、「書く」と「トイレ」はほぼイコールなのだと今でも思ってしまう。

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とはいえ、鍵がかけられた小さな闇の中で彷徨っていたあのときとは、また少し違う気持ちも今は抱いている。
「ふう、すっきりした」と自己完結だけで終わりたいわけでもない。誰かに届く文章を書きたい、とも思う。単なるトイレでは、人の心を動かすような熱はきっと宿せない。

3年前と違って、曲がりなりにも今の私は「ライター」を名乗っているのだから。

色々な事情で、例の知人と会うことはもうないだろうけれど、それでもその人に恥じない自分でありたいとは思う。
もしどこかでばったり遭遇したら、その時は堂々と名刺なんかを渡せたりしたらカッコいいだろうな、そんな想像を密かに膨らませたりしている。