変わってほしいことなんていくらでもある。でも、変わってほしいことは、イコール私が変えたいことではない。
問題はもっと複雑であり、だからこそやるべきことは単純である。或いは、やるべきことが単純だからこそ問題が複雑だと言ってもいいかもしれない。

◎          ◎

塾で分からない問題を男性の先生に質問したら、女子は解けなくていいよと言われたこと。生理は隠さなければいけないという静かな圧力。管理職は男性が多いこと。襲うのは男で襲われるのは女という構図。力仕事を男性が担当すること。女性の方がコミュニケーション力が高いと言われること。男性が女性をエスコートすること。

それがいいか悪いかは別にして、男性脳と女性脳、男女間での身体能力や身体つきに違いがあることは、生理学や心理学的に紛れもない事実だ。
ただ、学問の世界を出た途端、その事実にさらにイメージという尾ひれが付きまとう。この事実とイメージの組み合わせがどんな事象に適応されるかによって偏見か、単なるイメージか、気遣いかで貼られるレッテルが変わる。

仕事で女は引っ込んでおけ、俺達がやるからと言われたら大抵の女性は憤りを感じるだろうけど、プライベートで疲れているだろうから休んでいいよなんて言われたらジェントルマンとキュンとする人が多いのはこのためだと考える。

◎          ◎

私はこの曖昧な境界線に、嫌悪感のような、虚しさのような、何とも言えない気持ちを抱いている。
定義が明確にできないこと、ケースバイケースであることは仕方がない。むしろそうでなければ民主主義にも基本的人権の尊重にも反する。
でも、それらの曖昧さが常に正しく行使されることは不可能と言っても過言ではない。

きっとこれから私が書くことで傷つく人も憤る人もいる。でも、こういう場で、こんな機会でないと言えないことだから。私が女性であるということに免じて、少しだけ許してほしい。
私のように考えている人がいるなら、それが女性であれ、男性であれ、ここで私が勇気を出したことが少しだけ報われる気がするから。それにこれは性に限った話ではないのだ。

では、免責を済ませたところで言わせていただこう。
私には正直、世の中の一部の女性が横暴に感じられるのだ。

◎          ◎

今の社会は、女性ばかりが地位向上や権利の尊重を唱えているように思われる。
女性は弱い。肉体的にも社会的にも。だから守ってくれ。だから尊重してくれ。そして、弱さという矛に対する盾を、ことさら強さのレッテルを張られた者達が持つことは許されない。
彼らが本当に強いかどうかはそこでは問題にならない。レッテルこそが全てなのだ。

こんな社会では、果たして虐めているのは誰で、虐められているのは誰なのだろう。表面上のカーストと、実際の姿。まさに矛盾である。
もちろん、弱さのレッテルを張られた者の中で本当に誰かの助けを必要としている人もいるのは知っている。私が受け入れられないのはレッテルを利用している人達だ。

◎          ◎

何の努力もしないで地位が上がるわけはない。文句を言うばかりで問題が解決するわけがない。女性であるというだけで彼女達ばかりが自分の立場を憂いて、社会の改変を求めるだけでは他人の心には何も届かない。
自分達が心から変化を求めるならば、まずは相手の声も聞かなければならない。giveばかりで世の中は成り立たない。

だから私は男性の声も聞くべきだと思うのだ。私達女性が弱者の性と捉えられることに不満を感じるように、強者の性というステレオタイプに縛られて苦しむことがあるのではないだろうか。女性も男性も、レッテルを矛にして生き生きとそれを振りかざす人の影で、同じレッテルに苦しめられている人がいるのは同じなのではないだろうか。

女性にヒールを履かせるのではなく、性別に関係なく椅子を与え、目線を合わせること。それも平等ではないか。

◎          ◎

幸運なことに現代の女性には弱さのレッテルのおかげで不満を吐き出す機会がある。それが許されるムードもある。国際女性デーもそのひとつのはずだ。
だから、あえて私はこの「女性のため」の日、女性がヒールを履こうとする日に、男性の悩みや不満、憤り、それらを吐き出せる環境を、声を聞くことを訴えたい。

ピンヒールは履いている側もそれに踏まれる方も痛いから。強さのレッテルに苦しむ人、不満を抱える人。その人達の声を聞ける場所。それが充実すれば、女性も男性もお互いの不満を知り、寄り添ったり譲歩したり、やっぱり納得できなかったり、とにかく真っ向正面から正々堂々ぶつかりやすくなるのではないだろうか。

今までどちらが上でどちらが下だったかの議論はしない。それは一義的には分かるものではなく、かといって多義的になればもっと複雑になる。何より議論する意味がない。でも、これだけは言えるはずだ。
互いの声を聞くことで、人々はやっと椅子に座り、同じテーブルを囲めるということを。
それもまた、女性が主張し続けてきた平等の一つの形であるということを。