算数はできるのだが、数学は苦手である。すとんと腑に落ちない感覚を授業で味わったのは小学3年生の時だ。小数という概念である。物体を数えるのは整数だけだと思っていたから、戸惑った。
りんごやケーキのようにカットができるものを表現するならまだいいが、他は非常に困る。欧米だと仮分数や真分数なるものが主流だというから、ますます恐れ入ってしまった。苦手意識が生まれたのだ。

当然、このまま進学するとえらいことになった。負の数の定義もいまだによくわかっていない。もうこういうものだと割り切って計算するしかなかった。中学生相手に説明しろと言われたら多分できない。
辛うじて180*(n-2)は覚えている。だがこれも、実際に多角形が視覚イメージで描けるから計算の全体像がつかめるというだけの話。
高校数学は言うまでもない。不等式は特定の数値ではなく範囲を求めるものというのは、図を描けば確かにわかる。が、テストでは図ではなく数式でその過程を説明しなくてはいけない。視覚化できないlogや虚数はないのと一緒である。
自分が何を書いているかわからなくなってしまった。わからない状態が楽しめないので、勉強が苦痛になってしまったのである。

◎          ◎

では文系なら無双していたかと言われると、これはこれで困った。
文法や理屈で読むということがとても難しい。これは何を表す「べし」で、何が上についているからこういう活用なのかということより、何が言いたい文章なのかということを気にしたい。そうじゃないと清少納言も吉田兼好もコナン・ドイルもシェイクスピアもがっかりするのではないかと思った。

指導された予習が非常に大変だったというのもある。このやり方は私には合っていなかったのかもしれない。
古文の場合は大学ノートを横向きにして対象範囲を丸ごと写すのだが、いかんせん進学校なので一日の範囲が膨大である。スマホを持っている人もまだあまりいない。授業にiPadを持ち込み、本文をダウンロードしてそこに訳文を書き込むということもできなかった。
全て写し終わるころには日付が変わっていて、他の教科も残っていた。品詞分解までたどり着ければその日はいい方である。
内容を楽しむ余裕がない読解が、これほど苦痛だとは思いもしなかった。本嫌いの子どもを量産する原因は授業ではなかろうかと言いたいくらいだ。

個人的に一番ナンセンスだと思ったのは、詩の扱いである。
漢詩は李白、口語詩は中原中也が履修範囲に入っていた。が、いずれも「授業では取り上げませんが、テストには出ますのでドリルを解いてください」で終わりである。
「一つのメルヘン」をどう思うか、どこが好きか、それをよいと思う根拠は何なのかをみんなで読み解くことが詩の面白さではないだろうか。文学史上でどこに属するか、それだけ覚えていればいいのか。私はそうは思えなかった。

◎          ◎

結局、3年生で高卒認定を受けて、クラスからは離脱した。勉強を楽しいと思えない状態が続くことが一番だめだと思ったのである。
赤本は解いたが、時間制限などは設けずにわからないところをゆっくりつぶす。設問テキストを楽しく読むことも大切だ。立教大学の長文読解は、メープルシロップの作り方が詳しく書いてあってとても興味深かった。

気づいたのは、文章化の過程で、もやもやしたことの整理と分析がなされるということだ。なんであのとき苦しいと思ったのか、どこでそれが解消されたのかが納得できた気がする。いうなれば過去と現在、未来の自分を救うためにエッセイを書いているのだ。

一浪の後に合格した私大の文学部では、「美」を感じられないエリートにはならないようにという薫陶を受けた。
どのような技法が使われていて、何音節なのかということはもちろん大切である。ただしそこで終わりではなく、それに裏付けられた美しさや面白さを感じることが一番大切なのだと、やっと確信を得られた。

更に強く思ったのは、どんな偶然であっても自分の文が試験問題に使われる時代は永遠に来ないでほしいということである。
文法事項にとらわれて本文を楽しく読んでもらえない。盗作やスランプを除けば、作家としてこれ以上の悪夢はない。多分。