「文章を書くということ」は、時を越えることだと思う。
私は、携帯に「気に入ったことば」を集めている。高校からの友人が、読んだ本の気に入った表現を集めていたのを真似した。
私のコレクションの中には、歌詞から漫才の中のセリフまで、私が「いいな」と思ったことばがつまっている。気に入ったことばは、私の近くにずっといて欲しいからだ。

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高校時代、古典の先生が授業中に放った印象に残っている一言がある。
「紫式部がお前たちに敬意を表している。これは古典のロマンだぞ」
古典の尊敬語について学ぶ授業で、地の文の丁寧語の敬意の方向は「作者から読者」と習った時のことばだ。

高校1年生。高校になじめずに、「学校選びを間違った」「やめてしまいたい」と本気で思う鬱々とした日々の中での出来事だった。国語が「現代文」と「古典」に分かれ、古典はさっぱり理解できなかったが、その一言で私は古典を嫌いになれなくなった。
あの時のことばは、クラスのみんなにはそこまで響いていなかったと思う。けれど、私にはしっかり響いた。
何百年も前に書かれた歴史的な文章で、世界的に有名なあの紫式部が私に敬意を表し、私と紫式部が時を越えて繋がったからだ。
もう5年前のことだが、未だにその時の情景が記憶に残っている。

もう一つ、似たような体験がある。
昨年、授業の課題として夏目漱石の『三四郎』を読んだ。
三四郎が東京で感じたことがつらつらと書かれている場面で、私は読みながら何度も頷いた。
電車は複雑、地元よりもずっと狭いはずの東京は、地元よりもずっと広く見える。
三四郎は九州の田舎から上京した大学生。
私も1年前に上京した大学生。しかし、上京1年目は、コロナのせいで外に出る気になれずに、友人が色々な場所に遊びに行っていることも知らずに、ずっと引き込もっていた。そのため、「東京」にちゃんと出るようになったのは、大学2年の、ちょうど『三四郎』を読みだしたころだった。
カルチャーショックだらけでちょっと落ち込んでいたので、三四郎に仲間意識すら持った。
夏目漱石が書いた文章が時を越えて、三四郎と私を繋げた。

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先日、私の成人式があった。
テレビでは、私が生まれた年に起きた出来事が特集されていて、コメンテーターの人が「そんなこともありましたね」と言っていた。
忘れていたことを思い出したような言い方だった。
見ただけで記憶に残る出来事もある。しかし、その記憶も消えてしまう。
何かで思い出すきっかけがないと、社会的なことすら忘れ去られてしまう。
個人レベルの記憶は、その人が忘れてしまったら、存在すら怪しくなってしまう。

だから、人々は「書くこと」をやめないのだと思う。
紫式部も夏目漱石も書いたから、時を越え、現在も残っているのだと思う。
逆に言えば、書かないと時は越えられない。
文字として残しておくことで、初めて「時を越える」という権利が得られる。

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「書くこと」は文字を使うこと。
紫式部とも夏目漱石とも繋がれたのは、そこに文字が存在していたからだ。
文字はことばになって、誰かを笑わせたり、救ったり、繋げたりする。
私にとって大事な人・ものは「大切なことば」を私に与えてくれる。

何百年も時を越えることはできないかもしれない。
何気ないことばのほうが意外とずっと残っていたりもする。
けれど、私のことばが誰かの生きる長い人生の中で、大切な存在になってくれたら嬉しい。
そう思って、私は文章を書く。
そして、そう思って文章を書いた人のことばを私はたくさん読みたい。