文章というと、エッセイや小論文、作文などを指すのだろうが、今回は「手紙」、「メッセージ」を取り上げさせてほしい。今までもらったそれらのどれもが、幾度となく私の心を震わせた宝物だから。
年末、実家に帰った。不思議なことに久しぶりに自分の部屋に入ると、普段は開けないような引き出しやアルバムを漁りたくなる。何か目的のものがあるわけでもなく、なんとなく思い出に浸っていると何枚もの手紙やメッセージカード、それに色紙も数枚出てきた。
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小学校低学年の時、仲の良かった子が、何でもない日にくれたキラキラペンで書かれた手紙。
「いつもありがとう。またあそぼうね。なつめちゃんだいすき!」
あの頃はちっとも不思議に思わなかった。突然の手紙も、突然の愛の告白も。
小学4年生のバレンタイン、せがまれて仕方なくチョコをあげた男の子からホワイトデーに立派なクッキーをもらった。添えられていた手紙からは浮足立つような嬉しさが溢れていた。間もなくしてその子から人生で初めて告白された。
中学1年生の時、虐められているのではと噂されている女の子に手紙を書いた。虐められているのか、何かできることはないか、そんなことをおっかなびっくり書いた。どんな距離感でどう接したらいいか分からなかった。
その手紙は今も私の手元にある。渡す前に彼女が学校に来なくなってしまったのだ。渡せなかった手紙は私の悔しさの塊で、同じことを繰り返さない私の誓いである。
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中学3年生になると、親友と呼び合える友達ができた。誕生日には今でもプレゼントにメッセージカードを添えてくれる。少しずつ増えていくカードを見て、これから何枚のカードをやり取りできるだろうと温かい気持ちになった。
高校にあがる前、留学をした。帰国前にもらった色紙にはクラスメイトや友達からのメッセージがたくさん書かれていた。その内容はもちろん、当時まだ英語に不安しかなかった私には、その色紙は海外の人と繋がることができたのだという証明であり、今までの努力の勲章のように思えて嬉しかった。
高校2年生では、私のことを一途に想ってくれる彼氏ができた。誕生日、クリスマス、バレンタイン。事あるごとに手紙をくれる。手紙には毎回、月・日だけでなく西暦も記されている。それが、来年も再来年も彼が無意識に私といる未来を見ていることの現れのようで、くすぐったい気持ちになる。
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来年、成人のお祝いに小学校の同窓会をすることになっている。クラスのみんなで作ったタイムカプセルには、小6の私が二十歳の私に向けた手紙、友達が私に書いてくれた手紙、私がみんなに書いた手紙が入っている。
何となく自分が書いたことは覚えているけれど、それがあの時の私の字で書かれた文章だということが大事なのだ。
今までに貰った、これから貰う、渡せなかった、手紙やメッセージ。
当時、その人が、その人の筆圧で、そのインクで書いた文字だけは、時間という大きな力に影響されないでいつまでもそこにいる。
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いつかその人が丁寧に折った紙を開き、その人がペンを走らせた所を指でなぞる。その時だけ、私は押しつぶされそうな今という時間から解放されて、少しだけどこかを揺蕩うことができる。
一般的にはそれを感傷に浸るというのだろうけれど、私にとってはそれよりずっと神秘的なものだ。私達が生きている時の流れの中で物思いに耽るのではない。時を遡って、しかもその人が文字を書いているその場面に立ち会うような、現実には起こり得るはずのない感じだ。
私はきっとこれから何度もこの文字を追うだろう。紙が色褪せてボロボロになっても、彼らが私にくれた文字が変わることはない。文字に時間は効力を持たないのだ。