「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
これは私が高校時代に国語の授業で教えてもらった、茨木のり子さんの詩(「自分の感受性ぐらい」詩集『自分の感受性ぐらい』(1977刊)所収)を締めくくる言葉だ。

教えてくれたのは大学卒業後、先生になりたてだった女性の先生。思春期真っ只中の私たち高校生に「あなたたちが感じ取ったものを大切にしなさい」ということを、歳が近くて社会に出たばかりの先生だからこそ、伝えたかった言葉だったのかもしれない。

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今でこそ自主的に本を読んだり、このように文章を書いている私だが、かつてはそうではなかった。

小学生の頃から高校生までの間、得意としていたことは美術の授業で風景画を描くこと。つまり、“非言語”が私にとって自分の感情や考えを表す、とっておきの手段だった。

当時の私の写真を見返してみると、どこか表情が曇っていて、目が笑っていない写真ばかり。ただでさえ平面な顔立ちなのに、喜怒哀楽が乏しくて仏頂面だったのだ。

そんなある日、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という言葉を授業で教わってから、少しずつ自問自答するようになった。

当時は心の中でうごめいて言葉に表せないことは、無意識のうちに風景画の色味として表現していた。
小学生の頃、暖かな陽が差し込む住宅街に並ぶ家々を、レゴブロックのようなビビットカラーで描いた。くすみや濁りを知らない澄んだ色味は、純粋さそのものを表していたのかもしれない。

中学生になり、水溜まりに涙のようにポタポタと落ちる雨のしずくと、水面に広がっていく波紋を、全体的に黒く濁らせた色味で描いた。思春期真っ只中で、言葉に表せないモヤモヤ感や胸のざわつきを表していたのだろう。

高校生になると、サンセットビーチとヤシの木を、鮮やかな黄色とオレンジのグラデーションと深い紫で描いた。真反対の色味を使うことで、理想の自分と現実の自分に葛藤しつつも、折り合いをつけたいという意志を表していたのではないかと振り返る。

“非言語”でしか気持ちを表せなかった私が、「“言語”だからこそ伝えられるものがある」ことにやっと気付いたのが、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という言葉だった。

“非言語”表現をすることで、感じ取ったものを「察してほしい、気付いてほしい」と思っていたかつての私は、“言語”表現を使うことで、「察して気付いてもらうのではなく、伝えることで知ってほしい」という姿勢へと変化していった。
察してももらえず、気付いてももらえなくて無いものとされてしまう感受性を守るために。

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私が感じ取ったものを言葉で伝えるためには、“言語”表現を鍛える必要があった。
手始めに、当時好きだったロックバンドのライブのセットリスト(ライブ中に歌われた曲のリスト)やMC中に話された内容を事細かに書き留めるレポートブログを始めた。

そのうちに、学校で起こったエピソードやフォロワー限定で進路や家庭内の悩みも投稿するようになっていた。学校のエピソードを書いた記事に対し、同い年で他県に住むフォロワーの女の子が共感してくれたり。進路の悩みを書いた記事に対し、フォロワーの主婦さんが「なにか苦しいことがあったらいつでも吐き出してね」と、優しく包み込んでくれた。
ちなみにこのフォロワーの主婦さんとは、コメントのやりとりから10年後、社会人になって仕事に悩んだ私にアドバイスをくれたYさんである。(「人のため」に働いて疲弊した私は、「向いている」仕事を選ぶ)

そんな温かいコメントをエッセイに書き出そうと思い、7年ぶりにブログを見返したところ、高校生の私が書き留めた記事は213本もあった。

沢山感じ取ったものを言葉で紡ぎ、そのフィードバックをコメントで貰った。そして、コメントを貰うたびに、これまで察してもらえず気付いてもらえなくて、無いものとされてしまっていた感受性が出てくるようになっていったのだろう。
それゆえにこころなしか、以前より表情が少し豊かになっていった。

高校の卒業写真を見返すと、タレ下がった目と上がった口角がくっつきそうになるくらい笑っていて、「お月さまにでもなるのではないか」というくらいに満面の笑みを浮かべた私がそこにいた。

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「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」

心の中でうごめく表せないモヤモヤがあるのなら、ぜひとも“言語”表現にして吐き出し、喜怒哀楽を重ねて、自分が感じ取った想いや違和感を大切にしてほしい。