自分と言葉についての関係性を考えてみた。
考えるきっかけになったのは、夏生さえりさんの『揺れる心の真ん中で』というエッセイを読んだからだ。

この方のエッセイは、気をつけて見ていないと見過ごしてしまうような感覚を、一つずつ丁寧に言語化している。
だから読んでいて自分も同じ感覚を味わったような気持ちになれたり、こんな感覚もあるのかという新しい発見があったり、分かるなあ〜と共感できる部分があったりして、読んでいておもしろい。

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感情や感覚は、言葉にしてしまうと、断定されてしまう。
自分が何かを感じている感覚があり、それを形にしようと、当てはまる言葉を探す。自分で自覚したり、人に伝えたりするには言語化が必要なのだけど、言語化した瞬間に一つの言葉や文章で表されて、枠にはまってしまう。

自分の感情を表すためには言葉が必要だ。でも、自分の感情を適切に表す言葉をちゃんと持っていないと、正しく表現ができない。大雑把な楽しい、嬉しい、悲しい、だけでは感じたことすべてを表すことができない。だから個人的な話をすると私は、人に気持ちを伝えるときは感情を取りこぼさないようにした結果、長文になりがちである。

私は本を読むのが好きだ。なぜ本を読むのか考えてみた。「寂しい」という感情を一言で表すだけなら、本はいらない。
「寂しい」一言で表せられない繊細な感情を、体験して味わうために、小説やエッセイがあるのだと思う。本を読む方が感情の差異を感じることが増え、自分の感情を感じる力も鍛えられていく感じがする。

そして、最近はエッセイが好きだ。エッセイは心の内を一つ一つ丁寧に拾って教えてくれる。楽しい!嬉しい!すごい!だけではなくて、「どういう状況で、どういう思考で、そう感じたのか」というところまで詳しく伝えてくれる。

自分だけではない、他の人もいろんな体験をしていて、心を動かされていて、泣きたいほどいいと思う瞬間があったり悲しい出来事があったりするんだ。皆一緒なんだな、と分かる。だから、本やエッセイを読むことが好きだ。

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さらに小説と違って、エッセイは本当に感じている生身の人間がいる。本の向こうに、体温を持った人がいることを感じる。

言葉にすると枠にあてはめられて、すべてを表すことはできない。
それでも言葉にしないと、誰とも分かりあえないし何も伝わらない。
言葉にすると感じたことの60%ぐらいしか伝わらないかもしれない。あとの言葉にできなかった40%は切り落とされてしまうかもしれない。

それでも完全に伝わらないからといって、伝えることを諦めるよりは良い。100%を目指して、100%にならないからと言って諦めると、誰とも何も分かりあえない。
だから言葉を尽くして伝えること、相手を理解することが必要だ。
みんな違うからこそ、自分の感情を自覚して、言葉にして、伝えて、関係を築きあうことが大事であると思う。

私は昔から自分の感覚を言葉にする習慣があった。誰に見せるためでもなく、ただ外に発散して自分のことを自覚するために、言葉にしていた。
言葉にする方法として、日記をつけたり、SNSのフォロワー0のアカウントに感じたことを書いたりしていた。
今までは自分の内面をただ外に出すことが目的で、人の目を気にしたことがなかった。だが、最近は人に伝わるようにうまく言語化できるようになりたいという願望がある。そして共感できる人を見つけられたり、内面に沿った言葉を使って交流できたらとても嬉しいな、という思いがある。

言葉をどう扱うかというのには、人間性が出ると思う。その部分が近い友達や恋人のほうが居心地がいい。すべてを分かり合う伝え合うことはできないけれど、伝えようとお互いが努力することはできる。そうやって関係を築くことを続けていきたいと思う。