私が文章を書こうと思ったのは、一番は自分のボキャブラリーの貧困さを痛感するようになったからだ。

日常的に使う言葉が仕事の中では限られているのに、いざ提案書など文章力や言葉の力が試される時にボキャブラリーの貧困さを思い知らされた。今まで20数年を通して自分の中に蓄積された言葉が、じわりじわりと私も気づかないうちに減っていたことに、はっとさせられた。

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次第に、文章を書いていると、自分の中のもやっとした霧みたいなものが晴れて、頭の中が整理されていくことに気づいた。
文章を書くもう一つの理由は、言葉にすることで、このもやっとした霧が晴れて、自分の中でもすとんと腑に落ちて自分を整えることにつながっているからだ。

子供の頃と比べて、もやっとしたものを心の中に留めることが増えたような気がする。子供の頃は思ったことを、そのまま口にした気がする。そのまま包み隠さずに言うことで傷つけた経験を経て、少し成長して相手のことを考えて言葉を選ぶようになった。

社会人になってさらに良くも悪くも色んな立場、というよりは利害関係を考えるようになって、より慎重に言葉を選ぶことに時間をかけ、思いついた言葉を飲み込むことが増えた。そんな「言葉を飲み込む」ことが増えるにつれて、自分の気持ちや考えを上手く伝えられなくなった気がする。

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さらに最近思うのは、自分の気持ちや考えは、言葉にしなければ「なかったこと」になるということ。言葉という形が与えられなかった気持ちや考えは、数分後にはすっかり忘れられてしまって、もはや自分の中でも「なかったこと」になっている。

また、社会人になって日常的に仕事で使う言葉は以前より俄然少なくなった。携わるプロジェクトによって仕事の内容は大きく変わるけれど、その中で使われる言葉は定型文化されているような気がする。

特にコロナ禍で、在宅勤務がメインに切り替わってからは、対面で会話するよりもテキストでコミュニケーションをする機会が増えた。PCの予測変換で出てくる言葉をつなげるだけだったり、時には出てきた一文をそのまま使うことも少なくない。

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こうした大人になっていくことや、取り巻く環境の変化の中で、自分が今考えていること・感じていることにじっくり向き合って言葉を与えることが少なくなった。このために、昔は感じなかった自分のものなのに言葉にできないもどかしさを感じることが増えた。

あいまいで捉えどころのないものに、なるべくぴったりと合うような言葉を選びながら言葉を紡いでいく作業。普段使うような言葉だけでは全然足りないし、もどかしさを感じる。
だけど、この作業の中で、人が読んでも理解できるように文章構成を考えることは、頭の中で自分自身の考えも論理的に整理されるし、ひとつの「形」を自分の言葉で与えることで、いつの間にかもやっとした霧も消えて心も落ち着く。

言葉に気を付けないといけない今だからこそ、言葉を選びつつ、文章にする時間を通して自分に向き合いたい。