私は「夢」をみることが好きだ。でも、「夢は叶えるもの」という言葉があまり好きじゃない。

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小さなころ、将来は大きなステージで「ありがとうございます、おかげさまで……」なんて挨拶をする大人になった自分を夢見ていた。
だが大きくなるにつれてそんなの叶うわけないことがわかってくる。勉強、音楽、そして文章。どれも私の上を行く存在がいる。

別に大きくて広い世界で比べたわけじゃないのに、こんな小さな場所ですら一番をとれず埋もれてしまう私なんて。大人になった自分は着実に近づいてくるというのに、夢見た自分は遠のいていく一方。中学生になると、私は人生の主人公ですらなくなっていた。

私の生きるこの世界の物語は、私以外の誰かが主人公で、私はよくて通行人B。もしかしたら背景としてぼかされているのかもしれないし、主人公の反感を買って悪役に仕立て上げられた挙句、物語の世界からはじき飛ばされる存在なのかもしれない。どうあがいたって現実での主人公にはなれない。
嫌になって逃げ込んだのが本の世界だった。

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私と似た誰かが主人公の世界。誰の目に触れないわけでもなく、誰の敵でもなく、時に大きく時に小さな世界を確実に変える主人公。どんな事件も苦難も理不尽も乗り越える主人公たちに自分を重ねて、現実ではない物語の世界をいくつも旅する。そんなことをしているうちに、ひとつ案が浮かんだ。
そうだ、私が主人公の話を考えればいいじゃん。

中学生の私は、妄想癖にかなり救われた。嫌な目にあったとき、理解不能な理不尽にぶち当たったとき、理解してもらえなかったとき。私を中心に教室を俯瞰でみた図の一コマ、その右端にセリフを書き起こすのだ。

「のちに私が大作家になるとは、誰も思っていない」と。
大作家というところには、世界的歌手とか大俳優とか革命家が入ることもあった。でもなぜか自然と大作家というのがお気に入りになった。

この「私は未来の大作家だ、まだ誰も知らない」という妄想癖が最大限に威力を発揮したのは、机に悪口を書かれたときである。いたって健全で真っ当な、もちろん妄想癖などない普通の生徒だったら、慌てふためき泣きじゃくったりするかもしれないタイプの、かなり巧妙で心えぐられるタイプの悪口だったと思う。
これを私は妄想癖でなんとか乗り切った。

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大きくなった今考えてみれば、机にラクガキされたなんて、結構な人生の汚点である。許されない汚点である。「あの時あんなことがあったけど、今となっては感謝しています」なんて綺麗ごとにできないほどの汚点である。

ただ、今の私には妄想癖と、もうひとつ、まるでインスタグラマーがフィルターと加工モリモリで写真をキラキラさせるように、汚点を映えさせる技術があった。それが文章。
文章で一番をとったことはない。でも授業で芸術鑑賞感想文や読書感想文を書いてお手本になったことは何回もある。そして妄想癖も行き着くところはいつも大作家だった。

振り返ると、小さいころサンタさんが木箱に詰めた絵本を持ってきてくれたり、習い事で得た特典が図書カードだったり。私は良質な文章で埋め尽くされた、文章がうまくなるための最高の環境で育っていた。
そう、書かない理由がない。昔を思い出した私は、あの頃の私を救うために物語を書き始めた。

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私は妄想癖で、この縦横無尽に暴れ狂う社会を生き抜く「夢」大好き人間だ。行き着くところは世界も認める大作家である。
でもそれを現実に叶えようと躍起になったりはしない。「夢」とは、見たのなら叶えるために必死こいて努力する、叶えられないのなら見てはいけない、なんてものではない。

妄想して楽しむのが「夢」である。「本当に叶っちゃったらどうする?」なんてニヤニヤニタニタしながら、夢見ることをいっぱい楽しんだ先で気づいたら叶っているものが「夢」なんだと思う。

あの頃の私のように、現実で許せないほど嫌なことがあったって、いつか叶えられるかもしれない、大きすぎるくらいの「夢」が未来にいてくれたら、それは最強の味方だ。
だから今日も私は、いつかの緊急事態に備えて妄想を育むし、いつか叶えられるかもしれない「夢」をニタニタ見ながら文章を書く。