昔から本を読むことが好きだった。
子どもの頃は毎週末、両親と一緒に近所の本屋に行くことが家族の定番だった。アンデルセンやグリム童話、日本昔話など、週に一冊、自分がその時気になった絵本を両親は買い与えてくれた。小学生になってからも、わかったさんやこまったさん、怪傑ゾロリや海賊ポケットなど、図書室にあった流行りの児童書はたぶんほとんど読んだ。ハリーポッターと出会ってからはファンタジーの世界にどハマりし、ダレン・シャンやロードオブザリング、その当時の話題のファンタジー小説は読み漁った。
いつしか、私の初めての将来の夢は「作家になること」になっていた。

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そして「作家」の夢を諦めたのもまた小学生の頃。その瞬間のことも、はっきりと覚えている。
将来の夢は「作家」なのだから、何か書かなくてはと思った私は、近所の百円均一で購入した作文用紙を目の前にして、白い猫を主人公とした物語を書こうと勇んだものの、まったく鉛筆が進まなかったのだ。
その時に幼い私は、当たり前のことに気付いた。本を読むのが大好きなことと、創作力はイコールではないのだ。
こうして、私の初めての「将来の夢」は、呆気なく散ってしまった。

初めての「将来の夢の挫折」の後も、私は本を読むことが好きなままだった。フィクションの作品だけに飽き足らず、著名な方の書いた評論やエッセイ集、フォトブックなど、「ちょっと気になった文章」にたくさん触れた。本を読むことを通して、その文章から書き手の人となりを想像することが楽しくなっていたのだ。
そのうち、私自身のことも文章を通して誰かに知ってほしいという気持ちから個人ブログを開設し、今思い出すと恥ずかしい日記のようなものを毎日ネットの海に浮かべて、十代を過ごした。

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何かが好きだという気持ちは、時に人生さえ変えてしまう力を持つもので、受験勉強そっちのけで、高校三年生の夏休みのすべてを懸けて書いたエッセイが、学力試験では到底手の届かなかったであろう第一志望の大学に私を入学させてくれた。
幼い頃の私が知ったら大喜びするだろう。

けれど、そんな私は現在、文章を書くことを生業にしているわけではなく、「作家になること」の次に抱いた夢もとうの昔に敗れてしまって、ただの名もなき三十路直前のサラリーマンとして日々を生きている。
仕事は上手くいくことの方が少ないし、自分の不機嫌から夫と些細な喧嘩になってしまい、自己嫌悪に陥ってしまうこともたくさんある。普段どれだけ能動的に、意欲的に生きることを心掛けていても、どう頑張ってもやる気が出ない日もある。

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でもそんな時は、自分自身の「しんどい」や「だるい」を、自分自身で文章にして客観的に「読んでみる」ようにしている。
丁寧に自分の気持ちを文字に起こすことは、私にとって、胸の中のつっかえを自分で掘り起こしていくような感覚で、なんともすっきりするのだ。
私の人生は特別なものではないけれど、「好きだ」と言えるものが私にはある。

今日は季節外れの大雨で、くせ毛はハネるし、スカートも鞄もびしょ濡れになった上、出勤後すぐを予定している会議のせいでやる気は出ないし、昨日までの天気が嘘のように肌寒いし、なんだかダルイ。
だから、新宿へ向かう朝の満員電車の中、吊革に必死に捕まるその反対の手で、スマートフォンの小さな画面にこの文章を打っている。