作文や小論文、学生時代から学校で書かされるものが苦手だった。
⁡400文字原稿用紙1枚を埋めるのがいつもキツくて、提出はいつもクラスの中で1番最後。
それでも時間内に書き終えられないと、先生が「半分でもいいから埋めなさい」と諦めるという始末。

⁡そのくらい、書かされて書くことが苦手な私。
⁡書き出しが分からなくて、10分以上は悩んでしまい、書き始めても、すぐにペンが止まってしまう。
一度止まってしまうと、また、書き始めに戻ってしまい、一向に進まない。

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そんな私だけれど、10代の頃から日記という名の自分だけが知るノートがあり、日々綴っている。
書くことが苦手と矛盾しているのでは?と、思うかもしれない。
⁡私にとっては、矛盾ではなく、自分の1番落ち着く時間であって、必要不可欠な時間でもある。

なぜなら、誰かに見られることなく、評価されることなく、自分の感じたことをそのまま綴ることができるから。
⁡書かされているという受動的ではいから。
⁡自分の感じたことをそのまま“わたし”として発信するのが苦手なのかもしれない。
⁡他人から見えている“わたし”と内側の“わたし”は違うから。

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日常生活の中で9割は頭の中で話して、口に出さないことがほとんど。
その9割を自分だけのノートに綴る。
誰かに見せることもないし、見せる必要もないノート。
そのノートには、今日あったことを書く日もあれば、こんなことを言われて嬉しかった、嫌だったとか。
日常のちょっとしたことから、大きな決断をする時だったり。

書いているほとんどは、マイナスなことなのかもしれない。
プラスな感情は、表に出しやすく、他人とシェアしやすい。
けれど、傷心、妬み、愚痴、外に出したくないことや恐らく周りと反対の考えは全部、自分だけが知るところ。
このノートに綴る私が本当の私であるのかもしれない。
誰かに評価されることもないから、素直に自分の思ったことをぶつけることができるから、400字なんて余裕だ。

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文章を書くことが苦手なのではない。
書いた文章を〇〇(本名)さんの感想文として公開されるのが本意ではない。
必ずしも、私=本名の私ではないはずだから。
⁡自由なはずなのに、こうあるべきという答えがあって、その通りの文章でないと丸バツで評価される。

バツが多いと書くことが苦手だと評価され、丸を増やすための文章を書こうとする。
そんな自分自身にウソをついてまで書こうとする文章に、書いた本人の心はあるのだろうか。
⁡見えない圧力がかかっている中では書くことはできないし、書く必要もないと思う。
⁡だから、今日も何も縛られない自分ノートや匿名のSNSで自由に私を出すことができるところで、自由に綴っているのだ。

世の中では、コミニュケーション力が無いとか裏垢とか言うけれど、それがまた考えを縮小させ、生きづらくする。
⁡文章を書くことはもっと自由であっていいはずなのに。