今も昔も大っ嫌い。これが私の文章を書くことに対する思いのすべてである。

私は大学3年生で就職活動をしている最中だ。
就活と言えばエントリーシート(ES)というのがつきものである。ESを書くには自己分析をして自分というものを詳らかにしなければならない。過去の自分を振り返り「私」を見つめなおす時間だ。
過去を振り返るうちに、ふと中学3年生のころに授業の一環で「20歳の自分に手紙を書く」という授業があったことを思い出した。

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中学3年生の私は心身共に不安定な環境にあった。というのも、私は転勤で広島から東京に行くことが決まっていたからだ。
広島ー東京間は新幹線で片道4時間。金曜日の授業後すぐに広島駅に向かい、夜に東京につく。土日に試験や学校見学を終えたら日曜の深夜に広島の家につき、月曜から学校に行く日々が続いた。多い時は毎週、広島-東京を往復していた。休みという休みはなかった。

そんな日々の中で手紙を書く授業が突如として私に降りかかってきた。
「5年後の自分なんて今と別の生き物だ。書いたところで何の意味がある?」
これが私の第一に考えたことだった。まったくもってかわいげのない子供だ。
とにかく書かねば授業は終わらない。ということで適当にその時思ったことと、将来なりたい自分の像について書いたはずだ(手紙は回収されたため、真偽は不確かである)。

ここまで読んでもらってなんだが、文章を書くことが嫌いな理由ははっきりとしない。あえて理由をあげるならこんなところだろう。
「自分の考えやおもいなんて誰が知りたい?自分ですら興味がないのに。まして周りから影響をうけてそのまま表現された言葉に価値などない」
本当にひねくれているな、私は。

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昔から「執着」というものとは無縁だ。離れ・別れることが前提で人生が進んでいるのだから。いずれ私もいなくなる、それは当然だ。だから私がいたということが残る「文章・手紙」は私にとって価値のない紙切れである。残す意味が分からない、すぐ捨てたい、振り返ることはないから。その無価値な紙切れに私の時間を使ったと思うと嫌になる。

書くならば最低限のルールを守り、評価される文章ならそれっぽいことばを並べたて考えたように見せる必要がある。どこかで聞いたような気がする言葉なのに自分のことばのように堂々とふるまう。
そんな無価値なことする暇あるなら寝たいし遊びたい、旅行したい。これが本音だ。いっそ他人にはわけわからない言葉を使って話す方が、自分のことばだ。私にそんな芸当無理であるが。

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こんな思いがあり、私は文章を書くということが嫌いである。中学生のころから現在までそんなひねくれたまま成長した。そのためESにも意味を感じない。キャリアセンター(学内の就活サポート)に行っても、学生のガクチカや自己PRなんて大差ないと言われる始末だ。「ほら見たことか」。心の中でそんなことを思った。それでも私は就職するためにESを書く。私にとっては価値のない、相手にとってはただ選別するための紙切れを。

「紙切れ」と何度も使っているが、実は手書きでESを書いたことはない。最近は紙に書くこともめっきり減った。週に1回ペンを持てばいい方だろう。実際この文章もパソコンで打って書いている。紙に書いたものは紙切れとして1度捨てればもう見ることはない。だがパソコンで書いてしまうと完全削除しないとデータとして残り続ける。紙より厄介だ。振り返りもしない文章が残り続けるなんて最悪だ。

時が過ぎ、書類整理をしていると過去に書いた私の文章が目に入る。興味本位で読んでみると自分の未熟さや愚かさに、悲しさや笑いが湧き上がる。
ああ、これが嫌いな理由だったのか。