私は、文章を書くのが苦手だ。だから、この「文章を書くということ」も億劫に思いながら書いていることは否定できない。
苦手な理由は、1つである。文章という目に見えるかたちにすることで、口で話すものよりも自分を縛り付ける感覚に陥るからである。
◎ ◎
例えば、Twitterに何かを投稿しようとする。何気ない日常の出来事でも、趣味のことでも、テレビやニュースに対するものでも、私は言葉選びに時間がかかる。フォロワー300人の小さなアカウントだが、世界に発信されるものなのだから、誰かを傷つけないだろうか、間違った情報ではないか、そのような迷いはあってしかるべきだと思う。
しかし私が迷うのは、選んだ言葉によって自分の行動や考えを縛り付けるのではないか、というものである。
例えば、Twitterに「今日からダイエットするぞ!」と投稿したら、ポジティブに働けばダイエットのモチベーションになるかもしれないが、もしダイエットをさぼってしまったときに罪悪感にさいなまれてしまう。
そのようなとき、私は自分の言葉に否定されたような気分になる。私は、自分の行動や考えを縛り付け、言葉に否定されるのが怖いから文章を書くことが苦手なのだ。
◎ ◎
ただ文章を書くのが苦手な私も、文章を書くのが嫌いというわけではない。
SNSで趣味について語ったり、投稿サイトに短編小説を投稿していたりする。この「文章を書くということ」というテーマを聞いた瞬間に、文章を書くのは苦手だなと直観的に思ったのと同時に、「いや、自分意外と書いているのでは?」と思ったのだ。
そして、なぜ苦手なのに自ら文章を書こうとするのだろう?と疑問が浮かんだ。
私が文章を書く理由には、1つの体験が関係しているのではないだろうか。
小学校高学年の国語の授業で書いた詩が、市に選ばれたことである。それは、毎日通学路にいる怖い顔をしたおじさんと交わす挨拶の話である。
私がこの詩を覚えているのは、先生や親から褒められたというのもあるが、それよりも怖い顔をしても毎日同じ場所で「おはよう」と言うために立ってくれているおじさんにずっと言えなかった「ありがとう」を、詩という文章で伝えられたからである。
この詩を書いたときは、あれこれと考えずに言葉が浮かんだように思う。きっと、伝えたいことをそのまま文章にできたのだろう。
この詩以降、「筆がのる」という感覚は私に現れたことがない。
◎ ◎
初めに、私は文章を書くのが苦手だと書いた。そしてその理由は、自分の行動や考えを縛り付け、自分の言葉に否定されるのが怖いからだと。ただ、それでも文章を書くのは、ときに自分の言葉に肯定されることもあるからだ。
私は、毎日通学路にいる怖い顔をしたおじさんに直接「ありがとう」と言えない自分が嫌だった。しかし詩を書いたことで、私は自分の文章に肯定された気持ちになった。
文章を書くことが苦手な私が、Twitterの140字を書いては消したり、3000字の短編小説に1ヶ月以上の時間を割いたり、たとえそれが誰の目に留まることがなくても、私は自分を肯定するために、これからも文章を書くのだと思う。