「今日はごめん!」
少なくとも週に一度は、友人からの放課後の遊びの誘いを断っていた、小学一年生の私。習い事があったわけではないが、私にはとても大事な用があった。
頭の中に広がる世界を、家でひとり自由帳に書き起こすことである。
文、絵、図などを用いて様々な登場人物や出来事であふれかえる世界を、そのままノートに写していた。親は心配していたけれど、その時間が無ければ今にも破裂してしまいそうなほど、私の頭はいつも空想でにぎやかだった。

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時を経て、大人になった私もまた、頭が空想で今にも破裂しそうな毎日を送っている。
部屋の窓から雲を眺めては、雲で私だけの高速道路を作ってみたり、植物園に行けば生まれ変わるならどの植物に生まれ変わりたいか想像したり、大変忙しい。そして今も時間を見つけては、日記、詩、お便り、エッセイなど、種類さまざまにとにかく文章を書いている。
そのすべてに共通していることが、喜怒哀楽の感情をメインに書いているということだ。

接客業をしている私は、些細なことで傷ついてしまう人間だ。クレーム対応をするたびに心がすり減ってしまう。
しかし、傷ついてしまう私は傷ついているままでいいと思っている。揺れ動く感情に対して鈍感になろうとすることは、貴重な感覚を無視してしまっているようで、悔しく感じてしまう。
「そういうことよくあるから、流しなよ」などと周囲からはよく言われるが、傷ついてしまう心をまっすぐに受け止めて味わいたい気持ちが強い。なぜかというと、負の感情は楽しいとき、嬉しいときには忘れてしまいそうになる、未来の私にとって価値のあるものだと思うからだ。
感じ取った繊細な気持ちを繊細なまま文章にして書いて昇華させることで、私の中にある宝箱に負の感情だったものを宝物としておさめていく。私はこうすることで、もがきながらも納得して自分らしく生きることができている。

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もちろん綴りたくなるのは、嬉しいときも。
中高生の頃、音楽雑誌を読むことが大好きで、書店に行っては端から端までむさぼるように読んでいた。なかでも好きだったのはライブレポートで、文章から溢れ出る色彩にいつも打ちのめされた。まるで読んだライブ全てに行ったかのように、いつもわくわくさせられた。

大人になり、自由にライブに行けるようになった今、日記は数時間を要し、とんでもないページ数にわたっている。泣いたり笑ったり、ライブという存在自体が感情をたくさん引き出してくれるもの、ということもあるだろうが、それ以上にライブレポートを読み漁っていた経験が大きいように思う。私をわくわくさせてくれた当時の大人みたく、あの溢れ出る色彩を文章の中に再現したい、という思いが根っこにあるのだ。

お小遣いで買えるものはまだ少なく、自分の手に届くものの中でいかに楽しみを広げるかいつも考えていた頃の、あの特別な色。私なりのライブレポートに限らず、嬉しいこと楽しいことは、溢れ出た思いの色彩の豊かさが色褪せる前に、夢中で書き留めるようにしている。

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私の好きな四字熟語に、雨奇晴好(うきせいこう)という熟語がある。晴れの日も雨の日も趣があり美しいという意味である。
人生で言うと、晴れの日のような楽しいこと嬉しいことは、自分の心により色彩豊かに広がるように、雨の日のような悲しいこと悔しいことは、貴重な宝物として宝箱におさめるために私は文章を書いている。

幼い頃から文章を書き続けてきたことで、書いてさえいれば少なくとも幸せだと感じられるのは、晴れの日と雨の日を繰り返す人生はいつも美しいのだということを、いつの間にか知っていたからだろうか。