その日に起きたこと、感じたことをメモ帳に書くようになってから3年が経とうとしている。
何をするにもすぐに飽きてしまう私が、なぜ3年も続けられるのだろうと不思議に思いつつも、実はその秘訣はすでに明らかになっている。
メモ帳だからだ。大抵の人は「その日に起きたこと、感じたこと」を書くことを「日記」と呼ぶのだろうが、私の場合は本当に、ただのメモ書きに過ぎないのだ。
いいことがあった日は長く書いたり、最悪な日は「最低な日だった」だけだったり、調子に乗って英語で書いたりもする。
そんなぐちゃぐちゃな日記があってたまるか、と批判を浴びせられそうだが、こう書くようになった理由は母にある。
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母は常に小さなノートとお気に入りのペンを持っていた。「忘れっぽいから」と言って、ノートにあらゆることを書いていた。その日の予定、父親の似顔絵、一日の感想など。
当時高校生だった私は、QOLを上げるために、日記をつけるための日記帳を買ったものの、気合が入っていたのはたったの5日程度だった。それからは面倒くさくなり、書くのをやめてしまった。
そんな時に母のノートを見せてもらった。
「なんかごちゃごちゃしてるね」。母のノートを見て最初に発した言葉だった。
一つのノートに何でも書くのだから、逆にきれいに書く方が難しいという私の意見は普通と言えば普通だと思う。「日記も含めたなんでもノートだからいいの」と言ってきた母に動揺が隠せなかった。
日記は、その日あったことを日記帳が埋まるくらいまで書き、初めて日記と言えるのだと当時の私は思っていた。1週間も続かなかったこともあり、「こんな日記があってたまるか」と母に言ったのを憶えている(冒頭のような批判を母に浴びせたのである)。
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そんな私に母は「日記なんて自由に書けばいいんだよ」と、私が食べていたまあまあ大きいお菓子を手に取りながら言った。お菓子を取られたことに気づかないくらいには、母の日記に対する態度に唖然としてしまった。その後すぐに、なるほどと納得してしまった。
私の飽き性な性格もあるが、日記帳のページが埋まるまで書くことを毎日続ける行為は、誰にとっても簡単なことではないことは想像できたし、何より日記には型がないことに感動したのである。
それから、日記にルールを設けずに、自由に書くことを意識して日記をつけるようになった。
大学の課題で常日頃文章を書いているが、私にとっては日記をつけることも、文章を書くことだと思う。自由に日記をつけるようになってから、日記へのハードルが下がり、楽しさを感じることが増えた。
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文章を書くことに楽しさを見出せるようになった変化は、私の中でとても大きいことだと思う。メモ書き程度の方が多い日記を文章とみなし、楽しさを見出す行為は賢いとは言えないが、日記を通して、長文を書くことに少しずつ楽しさを感じるようになってきたことは事実である。
文章を書くことは、相手に読んでもらうから丁寧に書かなきゃ、長く書かなきゃなど、なんだか堅苦しくて難しい行為だと思ってきた(今でも思っている)。そんな時は、とりあえず自分の思いを自由に書いてみることにしている。
ルールを設けずに書いてみると、意外に自分の思っていることを文字にできることに気づく。そこから、修正を加え、だんだんと形にしていく。その過程を「楽しい」と感じる瞬間があることに感動するのである。
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誰宛てでもないぐちゃなぐちゃな日記を通し、誰かの、何かのために書く文章の成長を感じるたびに、日記をつけてきてよかったと思う。日記に型がないように、どんな文章も初めは自由に書いてもいいのではないかと考える。
日記がこんな形で文章に繋がるとは思わなかったが、更に日記の魅力に気づいてしまったため、今後も自由な私の日記をつけていこうと思う。