私は家庭の事情で、中学生になったころから弟と私は祖父母の家で暮らすようになった。現在も一緒に暮らしている。

それ以前は半年に数回会う程度の関係だったので、祖父母に怒られた記憶は無く、”怒らない人”、”優しい人”というイメージだったが、一緒に住むようになって祖父母が保護者となってからは段々怒られるようになり、言い合いをするようになった。

特に、祖母には何度も色んなことで注意を受け、その度に言い合いをしていた。そのほとんどは確かに祖母の言う通りで、非があるのは大抵私の方。一言謝って、悪いところを直せばよい。そんなことは分かってはいたけれど、私は重度の”ああ言えばこう言う”人間だったのでどうしてもそれが出来なかった。

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今思い返しても、本当に些細なことばかりだった。
テスト勉強をサボっていたのがバレたとき、「1時間くらい集中して勉強しなよ」と言われたら「勉強してない人に言われたくない」と言い返し、「(弟に)漫画くらい貸してあげなさい」と言われたら「私は弟に何も借りてないから貸す理由がない」と言い返し、「いいかげん部屋を片付けなさい」と言われたら「私の部屋なんだから放っておいて」と言い返した。

とにかく何か言われたら言い返さずにはいられなかった。今思えば典型的な反抗期だが、当時の私にはその自覚が無く、訳も分からずとにかく言い返し続けていた。反抗期とはいえ、高齢者の手をここまで煩わせるとは我ながら本当にくそ野郎だったと思う。相当心に余裕がなかったのだろう。

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ある日、また些細なこと(昼ごろまで寝てたとか)で言い合いが始まったが、そのときついに祖母に「(家を)出ていけ」と言われた。親に言われたことは何度かあったが、あの”優しかった”祖母にそこまで言われたのは初めてだったので、ものすごくショックを受けたのを覚えている。さすがに反省をしたが、それでもなんとなく面と向かって謝ることは出来なかった。

無駄に高いプライドや気恥ずかしさが邪魔をして私から面と向かって謝ることはできなかったが、そのくせ、帰宅しても空気が悪かったり、いつもしている何気ない会話が出来なかったりするのも耐えられなかった。

険悪な空気のまま夜中になって起きているのは私一人だけになった時、一生この険悪な空気のままかもしれないと思ってしまい、無性に怖くなった。そこでわたしは置き手紙を書いた。

普段は、就寝時間が自分よりはるかに早い祖母との連絡手段のために置手紙を使っていて、伝え忘れていた次の日の予定や、ボディソープを詰め替えておいたことなどを書いていた。そんな置手紙に自分の思いを乗せるのは初めてのことだった。

手紙には直接ごめんなさいとは書けなかったが、日頃から感謝しているということと、次の日は朝ちゃんと起きられるようにするということを書いた。面と向かっては絶対に言えなかったことが、文字にすると案外すんなり書くことが出来た。本人を目の前にしていない分、心に余裕を持てたのかもしれない。

すると、次の日から祖母が纏う空気が柔らかくなったような気がして、少しずつ普段の関係に戻っていった。結局、家を追い出されるという事態は免れた。

なぜ、友達や知らない人にはすぐに謝れるくせに祖母には謝れないのだろうか。おそらくそれは”甘え”だろう。何を言い返しても見捨てないでいてくれる祖母に甘えていたのだと思う。

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ここ2年は大学生になり、反抗期当時の頃よりは心に余裕が出てきて言い合いの回数も格段に減った。やらかしても意地になったり長引かせたりせずに、自分の非を認めて改めることが出来るようになってきていると思う(はずだ)。

先日、何も連絡しないまま終電で帰宅、夕飯も済ませてきてしまうという失態を犯した。帰るのが遅くなる時は連絡することと、日々のご飯の支度のいる、いらないの報告は祖父母と暮らしていく上での大事なルールの一つだ。

「あーこれは謝罪案件だ」と帰る途中の電車に乗っていた時から分かっていたが、大学生だからこれくらい許してくれよという気持ちと、ルール違反をしてしまったことへの反省の気持ちがせめぎあい、結局また置手紙に謝罪を書いた。

祖母は今まで私が書いた置手紙を自分の部屋のタンスに貼り付けている。新しい置手紙が貼られていってスペースがなくなりそうになったら、捨てればいいのに、その度に箱にしまっていた。書くことでしか素直になれない孫なのに、大したことなんて書かれていない置手紙でさえ保管してくれることに、愛を感じられずにいられない。

あと数年で社会人になり、おそらくそのタイミングで家を出る予定だ。書くことで色んなピンチを乗り越えてきた人生だったが、いい加減、置手紙が無いと素直になれない子供から卒業し、きちんと精神も大人になって家を出られるようにしようと思う。